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Candy 我家の日記帳 (仙台からお届けする徒然日記)
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新サイトへ移行についてShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/11/15 16:52 

Windows Web Sever 2008 R2が利用可能となり、徐々に従来のサイトを新サイトへ移動する準備を進めておりましたが、このほどブログサイトの

「我家の日記帳」も新サイトへ移行

できることとなりました。

新旧のURLは下記のとおりです。

ご覧のとおり、URLは従来のURLを踏襲していますのでリンク情報を変更する必要はありませんが、旧サイトをご覧になる場合にはURLが異なりますので、ご注意ください。

TPP参加に反対Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/11/11 7:43雑感 

TPP交渉への日本の参加問題が巷を賑わしている。私のような市井の人間がとやかく言ういわれはないのだが、やはりひとこと言いたい。

環太平洋経済連携協定(TPP)交渉への日本の参加は、近々の政治課題としてマスコミを賑わしている。農協や日本医師会が先頭になって参加に反対し、一部の先進的と称する政治家や企業のトップが賛成する構図だ。TPPとは加盟国の間で工業品、農業品を含む全品目の関税を撤廃し、政府調達、知的財産権、労働規制、金融、医療サービスなどにおけるすべての非関税障壁を撤廃し自由化する協定のことだ。

経済界はTPPへ参加しないと国際的な商品の価格競争で他国と太刀打ちできないと主張する。特に隣国の韓国を意識してのことだろう。一方農協は海外の安い農産物が関税無しで国内に流入すれば、国内の農業が壊滅的な打撃を受けると主張する。私は次のような理由でTPP交渉への日本の参加に反対する。

  1. TPP交渉へ参加すると日本の食料自給率がさらに低下する。世界の人口は爆発的に増えている。将来に予測される世界的な食糧不足に対処するために、日本の食料自給率を改善しなければならない。こんな現状を分析すれば、国を挙げて地産地消に取り組まなければならないのにTPP参加はその障害となる。自由貿易と食料自給率の向上を天秤にかけた場合に、まともな人間であれば食料自給率の向上を選ぶだろう。
  2. 東日本大震災で復興途中の日本に、TPP参加のメリットはない。東北の被災地では若者を含めて失業者が増加している。TPP交渉に参加する余裕は政府にはない。
  3. 小泉構造改革と同様に、TPP参加の効果よりも副作用の弊害のほうが多い。そもそも何のための経済活動が考えてほしい。大きな企業が海外で物を売りやすくすることが、日本の市井の人々の生活に役立つのか、考えてほしい。経済のグローバル化は果たして、人々の生活を楽にしているのか、考えてほしい。
  4. TPP参加は明治維新の開国に匹敵すると論ずる愚かな政治家がいる。そもそも明治維新によって、薩摩、長州の田舎ものによって、江戸の薫り高い文化がズタズタに破壊されたのだ。明治の文豪、夏目漱石は、明治維新によって江戸文化は瓦解したと論じていた。そして日本の江戸文化の価値がヨーロッパの国々から逆にもたらされたのは皮肉な歴史の事実だ。明治維新の副作用は西郷隆盛の西南戦争の終結、すなわち明治10年まで続いたのだ。開国の弊害も考えてほしい。
  5. TPP参加によって果たして市井の人々の生活が向上するだろうか。例えば円高で輸入品が安くなって我々の生活が潤うはずが、ちっとも円高のメリットを感じない。TPP参加によって輸入品が安くなるのだろうか。スーパーで売られる野菜はちっとも安くならずに、近所の農家だけが次々と廃業する姿が目に見えるようだ。

何となく見方を変えれば、現代は昭和初期の日米開戦の状況に似ているのかもしれない。日本は当時の国内の思想的な混乱、経済的な疲弊を突破するために、当時でも最強のアメリカに戦争を挑んで無残な負け方をした。TPPも経済戦争におけるアメリカの戦略と考えれば、お人よしの日本はまんまとその術中に嵌まり、無残な敗戦、第二の敗戦を迎えるのかもしれない。3月11日の東日本大震災を受けて、日本はTPPという名の無謀な自由貿易の戦いをアメリカに挑もうとしている。それが大震災以上の致命的な傷痕にならなければよいが。(三)

本格的な寒さが到来(仙台)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/11/10 6:30仙台 

今朝の仙台は相当に冷え込んだので、私は通勤に手袋を着用した。泉ヶ岳の頭上近くには満月(暦の上では、本当は明日が満月なのだが)が煌々と輝いていた。午前6時の外気温は摂氏5度しかない。寒いはずだ。これからは外出時には、コートが必要になるに違いない。

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事務所でもガスストーブをつけた。このガスストーブは携帯ガスコンロ用のガスボンベを燃料として使うのだが、ネットで宣伝していたのでイワタニから通販で直接購入した。値段は1万円だったがこのワインカラーの暖房機器は通販でしか買えないそうなので、やむを得ない。持ち運びが簡単なので洗面所でも使えそうだ。(三)

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落し物(高畠町)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/11/07 11:24仙台 

本日(11月7日)、山形県の南陽市の警察署から拙宅に落し物に関するお問い合わせがあった。なんでも高畠町にある温泉施設から届けられた名刺入れの中に、私の自宅および事務所の電話番号および家内の電話番号がメモされた用紙が入っていたそうだ。名前の記述はなく、落し物係りの小関氏(南陽警察署、電話0238-50-0110)が電話番号だけを頼りに拙宅に電話してきたものだ。

山形県の高畠町というと私たち夫婦には心当たりがない。この名刺入れは女性用で、表にプリクラ写真が貼ってあった模様である。その写真にはご夫婦と娘さんおよび男女のお孫さんが写っているそうだ。そうなると私たち夫婦にはこの家族が誰なのか全く心当たりがなくなってしまった。たぶん、私または家内の縁者が失くされたのだと思うが、心当たりがある方は、直接南陽警察署へお電話をお願いします。(三)

無線LANから有線LANへ変更Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/11/06 18:56自宅 

仙台の我家のネットワーク環境は、WAN側がBフレッツを利用した光ブロードバンド接続なのだが、LAN側はパソコンへ有線による配線が困難な関係で、長らく無線LANを利用していた。Bフレッツの光モデムからLANケーブルでハブへいったん接続し、このハブからLANケーブルの分岐でNTTのルータおよびバッファロの無線ルータと接続している。NTTルータはインタネット接続には使わずにひかり電話専用だが、無線ルータからは1階と2階の寝室および娘の部屋のパソコンへエアーステーションの子機を利用してインタネット接続をしていた。このうち寝室のパソコンへの接続は、業者さんにお願いして有線LANへ変更した。この有線LANへ変更した結果、寝室のパソコンは常に安定したインタネットへの接続を確保できるようになった。一方、残りの2か所については依然として無線LANを利用していたのだが、最近、この無線LANによる接続が安定しない。その状態は移動中の携帯電話のように、アンテナの線が数本だったり2本だったりとなかなか安定しない。原因を探ると近所の無線LANで強力な電波を出すユーザーが増えたためのようだ。私の無線IDは下記のD8C424・・・なのだが、ご近所の強力な電波のせいで以前の「強力」から「弱い」へと変化している。これでは安定したデータ通信ができない。

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やむを得ずK’S電気でフラットタイプのLANケーブルを購入して、無線LANから有線LANへ変更した。2階のルータから1階のパソコンへは約33Mのケーブル長が必要だった。一方同じ2階の娘の部屋へは約15M長のLANケーブルが必要だった。いずれもフラットタイプのケーブルだったので、ドアの隙間にも十分に配線できた。以前のCAT5のLANケーブルにはフラットケーブルが無くて、丸型の太いケーブルだけが購入できたのだが、現在では非常に薄いフラットケーブルが登場して、便利になった。

ちなみに有線LANへ変更後の回線スピードは常時、20Mbpsを確保できている。無線LANではせいぜい5Mbpsがやっとだった。費用は有線LANケーブルおよび中継コネクタの購入で約5000円ほど要した。(三)

早朝の気仙沼湾Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/11/05 20:21気仙沼 

この写真は安波山の中腹から早朝の午前6時に撮影した気仙沼湾とその先にそびえる亀山の風景である。11月の初旬にもかかわらず異様に暖かく、亀山の麓にはうっすらともやがかかっている。漁船が一隻、湾の奥に向かって進んでいる。この風景だけを見ると3月11日の大震災がまるで無かったかのようである。

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帰り際、法玄寺に兄夫婦の遺骨にお祈りを捧げるために寄った時、駒林泰玄(たいげん)上人より御会式法要のご案内を頂戴した。法要は11月6日(日)だったのであいにく参加できない旨、お断りを申し上げたが、私には元々「御会式(おえしき)」とはなんの行事かわからなかった。案内状によれば御会式とは、日蓮聖人の御命日を期し、報恩の祈りを捧げる日なのだそうだ。私がそれでも怪訝な表情をしていると、泰玄さんが昔お寺でお餅を食べる会があったことを説明された。それならば私が子供の時の最大の楽しみの一つだった。お寺に家族が呼ばれ、ほかの大勢の信者と共に大きな長方形のテーブルに座り、おばさんたちによって給仕されるお雑煮やクルミ餅、あんこ餅を食べる。このお寺で食するお雑煮がほかのどこのお雑煮よりもおいしかった。まだ元気だったトミ婆さんやツヤお婆さんが食事の世話をしてくれるのも嬉しかった。前にも書いたが、当時はお寺が街で行われるいろいろな行事の中心だったように思える。法玄寺は日蓮宗のお寺なのだが、トミ婆さんとツヤお婆さんは冬の修行にも参加していた。街中を夕方、あの法華の太鼓を叩いて信者が巡回する。その中に二人の姿があった。懐かしい思い出だ。

そうか、あれは「御会式」の行事だったのだ。私はそれは仏の誕生日を祝う花祭りの行事だと思っていた。日蓮が時の鎌倉幕府に弾圧された苦行の僧のイメージが強かったので、日蓮の命日にお餅を食べることが似合わないと思っていた。御年58歳になってひとつ誤解が解けた。

本案内状には末尾によい言葉が書かれていたので、是非とも紹介したい。(三)

「あれほど荒れ狂った海も、秋の日差しにきらめく恵みをもたらす海へと蘇っています。各家先祖代々之霊位と共に震災物故者のご冥福と、復興への祈りを捧げ、前へ進む一歩といたしましょう」

お墓の雑草退治(気仙沼)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/11/05 15:33気仙沼 

まあ雑草そのものは何も悪いことをしているとは思っていないのだろうが、むしろ生きとし生けるものの常として、当たり前の生存の権利を主張しているのかもしれない。しかし親せきが大勢集まる墓前で、草ぼうぼうのお墓の姿は遺族として具合が悪い。生前の随光院が春と秋のお彼岸の前に安波山の中腹まで登って雑草退治をしてくれていた。一方、夫たる唱道院は下世話なことと思ったかちっともお墓に来なかった。この二人が亡くなり墓守がいなくなってしまったので、御年58歳、不肖弟たる私がその役目を引き継ぐこととなった。もっとも遺族会議を開いて決めたのではなく、気仙沼に一番近い仙台に住む私が、そっと手を上げるしかなかった。

気仙沼市の市営墓地は山奥にあるが、車で行けるので、お墓の改修工事をしたとしても、その苦労は大したことはない。しかし旧市街の法玄寺、観音寺、正林寺の墓地はいずれも山の急斜面に造成されている。中でも我が実家の墓地は入沢墓地の最上階にある。確かにここからは気仙沼湾が望めて入船、出船の様子がよくわかる。しかしここへ来るまでに人一人がやっと通れる急斜面の細い道を登り切らなければならない。信心深いトミ婆さんがこの場所を決めたのだろうが、若年ならばともかく老年に近づいた子孫にとって多少難儀である。

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まずは工事前と工事後のお墓の姿を見ていただこう。素人の私でも手順を踏めば一人でもできるものだ。

  • 工事前の草ぼうぼうの状態

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  • 工事後の砂利が敷き詰められた状態

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甥たちに私の苦労を分からせるためにも、ぜひ、その作業の手順を本ブログに残したい。最初に本工事で使用した道具を示す。

  • お道具

防草シートの上に置かれているのが、トンカチ、短いスコップ、鍬、ビニール手袋、すのこ、そして4輪がついた作業椅子である。この作業椅子は長時間の中腰の作業に便利だ。もしもこの作業椅子がなければ、すぐに腰痛が始まり、長時間の作業はとても望めなかっただろう。

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  • まずは草むしり

鍬と短いスコップを使用して雑草を根こそぎとって、土のう袋へせっせと入れた。土のうは全部で18袋も出来上がった。この草むしりで手抜きをすると、あとで防草シートの下から生命力の強い雑草が再び生えてくる可能性がある。できるだけ丁寧にやったので、土のう袋の数も増えてしまった。

  • できるだけ平らに整地する

掘る深さは墓地の土台のコンクリート面から5cmぐらいにした。下の写真で左下の土台と土の面の高さの違いを見ていただきたい。なお整地する段階で大量の瓦礫が出土したので、この段階が一番時間を費やした。

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  • 防草シートを張る

防草シートは端の部分が後で調整できるので多少長めに張った。はさみとナイフを使って後で切り詰める。防草シートの地面への固定は専用のプラスチックの杭を用いるが、下が固い石だとこの杭がなかなか刺さらない。そこで急きょホームセンターへ行ってトタン屋根用の鉄鋲を調達してきた。写真の左下に見えるのがビニール袋に入った青い鋲である。この鋲を使えば、ほとんどの固い地面に突き刺せることができた。

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  • 砂利を敷き詰める

砂利といっても庭に使うような5色の玉砂利である。最初下の写真にある砂利を10袋用意したのだがとても足らなかった。それで夕方にさらに追加で4袋をこの山の墓地まで運んできた。また撤去した土砂には玉砂利が少し入っていたので、すのこで土を濾してから灯篭の下の地面に使用した。本当は全部新しい玉砂利にしたかったのだが、これ以上玉砂利をお墓まで運ぶ気力が残されていなかった。

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  • 完成

異なるアングルから撮った完成後の墓地である。右下の黒い砂利は古い砂利を再利用したものである。いずれも全部同じ玉砂利へ交換する予定だが、今回はここまでとする。

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  • ポコの墓

墓地の片隅に浜見旅館で飼っていたポコのお墓がある。角にある比較的大きな石が墓石代わりである。ポコもあの世で兄夫婦と再び巡り合えて喜んでいるかもしれない。

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  • 費用について

墓地の改修工事について、その費用について補足したい。自分で全部の工事を行ったとして材料費は約10000円程度で済む。問題は私の人件費だが、約2日の工程だった。気仙沼のこの時期は日が暮れるのが早くて、午後4時になると仕事を終了しなければならない。早朝の仕事も午前6時をすぎないと明るくならない。自分のための仕事と思えば、この二日間の業務は決して損とは思わない。そして何よりも天気が良かったのが幸いした。11月の初旬なのに異様な暖かさだった。山の上でもやぶ蚊が酷くて、一時仕事を中断して街のコンビニで防虫スプレーを購入しようとした。しかし11月のこの時期には防虫スプレーは店頭に置いていないといわれた。やむを得ず線香を買ってお墓の周りで焚いた。線香には防虫効果があることを思い出させてくれた。(三)

  1. 玉砂利14袋 約6000円
  2. 防草シート(1.5間X1.5間) 約2000円
  3. その他 2000円
11月の大川(気仙沼)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/11/04 20:32気仙沼 

11月3日に気仙沼を訪れ、翌日4日の早朝に大川沿いを訪れた。その時撮影した写真を本ブログへアップする。大川は水量豊かな大河のようになっていた。まるで水が流れていないように静かな川面だった。例年ならばハクチョウやカモなどの水鳥がその優雅な姿を見せるのだが、今回はまったく見かけなかった。餌となる川魚が不足しているせいかもしれない。

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大川の土手沿いの桜はかなり傷んでいたが、来年春の開花の準備のため養生しているのだろう。しっかりと根を張り枝を広げていた。右わきの人家は一見何の被害もなさそうだが、実際には無人の状態だった。いつになったら自分の家に戻れるのだろうか。昔ご近所だった小湊さんの家もあった。外見は昔の姿を残すものの、内部は壊れたままだった。

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こちらは桜の木が前方で途切れている。まるでその先の土手が崩壊したように見える。

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大震災で甚大な被害を受けた南気仙沼小学校が対岸に見える。水面に写る校舎が滲んで泣いているように見えた。そう言えば小学校とこちらの岸を結ぶ歩行者専用の橋があったはずだ。画面の左寄りのコンクリートの壁の切り口がその名残である。この橋はJR南気仙沼駅を乗降する高校生の通学路にもなっていた。

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大川の手前の「内の脇地区」の壊滅的な被害に比べて、対岸の「南郷地区」は被害が少ないようだ。少なくても全壊するような家屋は見かけなかった。まずは被害の少ないほうから、早急に復旧してほしい。(三)

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ネット版三陸新報(気仙沼)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/11/02 6:28仙台 

仙台に住む私にとって気仙沼へ帰省した時に読む地元紙「三陸新報」が、地元の今を知るとともに知人の名前を探す楽しみの一つだった。そしてこの3月の震災後では、地元の復興の様子や縁者の訃報を知る貴重な情報源となった。しかし仙台の地で三陸新報を購入することは可能だが、速報性の観点からはこのネット版の三陸新報が役に立っている。月1400円で購読できるので8月から毎日事務所で読んでいる。

しかし液晶モニタで新聞を読むのは、字体がネット用ではないので何とも読みにくい。そして新聞を開いたり記事を追いかけたりする操作性は、とてもマテリアル版の三陸新報にかなわない。しかしこの11月からバージョンアップして多少操作性が向上した。

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例えば画面左側にページ一覧が表示されるとともに、ナビゲーターがついたので画面を拡大したまま記事の移動が簡単になった。格段の進歩だと思う。あとは活字体をネット専用の「メイリオ」へ変更してもらえると助かるのだが。(三)

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仙台箪笥と仏壇Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/10/29 7:15気仙沼 

気仙沼の実家にあった立派な仏壇が建物と共に流された。この仏壇は祖母のトミが22歳の若さでニューギニア戦線で戦死した敬志叔父の遺族年金をためて購入したそれは立派な仏壇だった。実家の仏壇でお焼香してくださるお客様は誰もがこの仏壇を褒めてくださった。その自慢の仏壇がなくなったので、ご先祖様の位牌(過去帳)も復活したことだし、甥達をせかせて新しい仏壇を購入させようと思っている。先日家内と仙台三越に用があって行ったところ、家具売り場に実に立派な仏壇が置いてあった。仙台箪笥を造る職人がその技術で仏壇も造っていることを初めて知った。母も一関からの嫁入り道具に似たような箪笥を2棹(さお)、気仙沼へ持ってきたが、昭和35年のチリ地震津波で冠水してしまって、もったいないことに古道具屋へ安価で売ってしまったと愚痴を言っていた。

写真を見るとわかるが、すべて仙台箪笥独特の黒光りする金具を使っている。値段は50万円からで、甥の住む鴬谷のマンションにはちょうど良い大きさではないか。まだ独身の甥がこの仏壇の前で手を合わせる姿は、実に清々しい風景ではないか。嫁さんをもらうにしても、仙台箪笥の仏壇付きのマンションなんてそうそうあるものではない。

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昔まだ私が中学生だった頃、父に唐突に結婚の目的は何かと訊いたことがある。父の答えは「子孫を造ることだと」と平然な顔でのたまった。若かった私は結婚とはそんな生殖行為であるはずがないと反発したものだ。いまでは誰も読まなくなったが、私は小説家である武者小路実篤先生が提唱する「プラトニック・ラブ」に意味もよくわからないまま影響を受けていた。結婚とは何か崇高なことと錯覚していたのだろう。

兄夫婦が震災で亡くなると、叔父として遺された甥達を早く結婚させて、自分なりに安心したくなる。そんな私も37歳まで独身だったのだから、甥達へのよい手本にならない。私の住む仙台北部では「できちゃった婚」がはやっている。日本の人口が減少に転じる中で、民族の自己防衛の本能が働いているのかもしれない。東京のような大都会に住むとそのような切実さが薄れてしまいかねない。甥達よ!仙台も住むには良いところだぞ!(三)

遺失物の捜索(唐桑町)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/10/28 8:59気仙沼 

津波で流された本家の遺失物(位牌、写真等)が誰かによって発見されていないかと、以前から気がかりだった。そして遺失物を探す絶好の機会が、先日甥達と気仙沼へ訪問した時に訪れた。

10月末の平日の月曜日、私は甥達と共に愛車スカイラインで震災後の唐桑半島を初めて訪れた。国道45号線から半島方面に車の向きを変え只腰のT字路に達した時、入江の正面にあったお土産屋が土台だけを残して跡形もなく無くなっていた。私の子供たちがまだ幼い時、この入江に車を停めて浜で遊んだもんだ。入江から沢に向かっての街並みも瓦礫が撤去されたせいか、平地となっていた。

私は予めネットで、遺失物は唐桑町の体育館に気仙沼市内の各地から集められていることを調べておいた。体育館は唐桑支所の裏手にあった。この支所も体育館も幹線道路から入り、曲がりくねった細い道を昇った坂の途中にあった。どちらも年季の入った建物で、遠洋漁業で鳴らした唐桑町であれば、もっと豪華な立派な建物だろうと想像していたのだが、見事にその予想は裏切られた。原発のある女川町や福島の大熊町の役場は豪華絢爛だったが、遠洋漁業の衰退と主に唐桑町そのものも衰退し、ついには気仙沼市と合併してしまった。

閑話休題。体育館の内部は平日なので閑散としていたが、数名のボランティアらしき若者たちが流された写真の修復作業とスキャナーを用いたデジタルデータ化を進めていた。膨大な量の写真を一枚一枚修復し、スキャナーにかけるのだから気の遠くなるような仕事だ。彼らの努力に頭を垂れ敬意を表します。

約2時間の滞在だったが、残念ながら本家に関わる遺品を発見できなかった。それでも甥たち兄弟は、自分たちの同級生や知り合いの写真をいくつか発見していた。遺失物の中で写真が最も多かったのだが、その数が多すぎてアルバム帳の一つ一つまで見切れなかった。捜索の途中で年配のご夫婦を何組か拝見した。多分ここのご近所の住民で、この体育館には何度も訪れていると言う印象だった。また機会があれば我々も大勢でこの体育館を訪れたい。(三)

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故牧野康夫氏の思い出Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/10/19 11:00雑感 

私が20歳から33歳までお世話になった東京渋谷に本社がある通信コンサル会社の元会長・社長である牧野康夫氏が10月11日に逝去された。長谷川さんから訃報のメールを頂戴した時、ご高齢(享年93歳)であることから、いつかはこんな日が来るだろうと思っていたことが現実になってしまった。私にとって、まさに巨星が墜ちた一日だった。ご遺族のお話しでは、安らかなご逝去だったそうだ。心よりご冥福をお祈り申しあげます。

牧野氏とは私がまだ20代の始めに、横浜のたまプラーザで初めてお会いしたと思う。分厚い眼鏡を掛けた牧野氏が事務室に入って来た時、貫禄があるその姿と親しみやすいお声に驚かされた。その当時私は労働組合の青年婦人部の役員をやっていたので、次期社長と噂されていた牧野氏には当然警戒心を持っていたのだが、そんな細かいことをふっ飛ばす様なお人柄だった。

私がイラン駐在時代には、牧野氏から私が初めて食するしゃぶしゃぶをテヘラン市内の和食店でご馳走なった。2年の駐在期間だったが、あの時食べた日本の味、しゃぶしゃぶを生涯忘れられない。

春闘の最中に社長室前の廊下に青年婦人部の仲間たちと座り込みを敢行したが、社長室から氏がこよなく愛するモーツアルトのクラリネット協奏曲が流れてきて、世の中の喧騒とはかけ離れた一味違う個性を発揮されていた。部屋から出て来た牧野社長は私達の姿を見て、「君達、ここで一体何をやっているの」と声を掛けた。私達の仲間の誰も返答できなかった。

私が33歳で退社した時、お別れの日に、牧野会長の姿が私の送別会の席に在った。管理職でもない一般職の私の退職のために、わざわざどうしてと、その時思った。氏の律義な一面に深く感謝した。合掌(三)

唱道院と随光院Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/10/18 10:10気仙沼 

昨日(17日)は愛車スカイラインで仙台を出発し、途中、一関駅で上野から出発した甥二人をピックアップして、気仙沼へ向かった。今回の気仙沼行きは、菩提寺の法玄寺にて泰玄上人から亡くなった兄夫婦の戒名を頂戴し、合わせて津波で流された位牌の代わりに過去帳へのご先祖様の記録の記入を依頼していたので、それを受け取るためだ。

兄夫婦のそれぞれの戒名は以下の通りだ。

  • 唱道院仁興日規居士(しょうどういん・じんこうにちのりこじ)
  • 随光院養浩日裕大姉(ずいこういん・ようこうにちゆうだいし)

兄さんは、広く人々に自らの道を唱え、仁徳を持って事業を興した人、そして姉さんは、兄に随行し、道を光で照らし、子供らを広くて大きく(浩)養い育てた人とご説明を受けた。私達はこの戒名(法名)を大変ありがたく頂戴した。 下の写真は過去帳に記載された戒名だ。

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お寺の帰りに墓石に今回頂戴した戒名を刻むために、お寺から紹介された石屋さんへ向かった。国道45号線沿いにその石屋さんがあったが、あいにく留守だった。しかし事務所の前には以前、浜見旅館で飼っていた犬のポコに良く似た石像があった。お墓の片隅にはポコも眠っているので、甥達と是非、この石碑も置きたいねと語った。

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いつかはしたい習い事(日経新聞)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/10/15 9:14自宅 

いつもの土曜日は平日と同様に二日町の事務所へ行くのだが、今朝は強い風を伴う雨降りだったので、私としては普段よりも遅い午前5時40分に起床して、ゆったりとした休日を自宅ではじめた。丁度、義父の命日だったので、いつもより丁寧に故人の冥福を祈った。義母は仏壇へ捧げるお膳の用意をしていた。私は最近購入した象印のコーヒーメーカーでエクアドル銘柄のコーヒーを作った。そしてコーヒーの香りを楽しみながら朝刊の日経新聞を読んでいると、土曜のコラム欄に表題のタイトルの記事が載っていた。私はこのタイトル部分を

「いつかは、したい習い事」と読まずに「いつか、はしたない習い事」

と読んでしまった。「はしたない習い事」とは一体どんな隠微な習い事かと、持ち前の好奇心で記事を眺めた。何のことはない、英会話、習字、ピアノなど、年配者が熱望する習い事を紹介していた。そこでもう一度、タイトルを読んで、正しい読み方に気付いた。日経の記者は間に句読点を入れれくれればよいものをと、いわれの無い文句を浴びせた。

それではせっかくなので、「はしたない習い事」を想像してみると、私の貧弱な想像力では以下のとおりだ。

  1. おならを気付かれずにもらす
  2. 耳垢を家人に完璧に取っていただく
  3. 横になってテレビを見ていながら、家人を怒らせずに用事を頼む
  4. 寝る前に、家人に布団を敷いていただく

私が希望する本当にささやかな習い事だ(如何に波風を立たせずに家人にやっていただくか)。(三)

労災が認定された(気仙沼)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/09/28 20:09気仙沼 

先ほど嬉しい連絡が入った。兄が経営していた水産加工工場で、3月11日の震災で亡くなられた従業員のMさんのただ一人の肉親であるYさんからの電話だった。

宮城労働局の指導で、Mさんに対する労災保険の支払の申請を7月にしていたのだが、その申請が認められ、国からの弔慰金がYさんの口座に振り込まれたと言う連絡だった。私自身、半信半疑でYさんの労災申請の手続きのお手伝いをさせていただいたのだが、これで少しだけ報われた気分だった。Yさん自身の家も今回の被災で跡形も無く流され、現在不自由なアパート暮らしをされている。Mさんが残されたこの弔慰金で、これからのYさんの生活の再建に少しでも役立てばと想った。そして私自身も少しだけ肩の荷が下りた気分だった。(三)

「海と生きる」(気仙沼)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/09/25 17:27気仙沼 

気仙沼市の復興計画のキャッチフレーズが「海と生きる」に決まったと、9月25日付の三陸新報に載っていた。この言葉は確か同年生の川島秀一君の言葉ではなかっただろうか。震災直後の津波で多くの気仙沼人が犠牲になったのに、海がもたらす恵みを生業の糧にして生きてきた漁師などの漁業関係者は、それでも「海と共に生きなければ成らないのか?」と言う疑問文だったはずだ。それが平坦な決意表明に変化している。あまりにもあっさりと陳腐な言葉に置き換えられている。

君達に怒りは無いのか!しかしでも海を捨てる訳にはいかない。積極的に海と生きるわけではない。愛する肉親を奪った海を、津波を、憎く想って当たり前だ。しかし我々の世代が初めての津波の被災者ではない。先人のように悩み苦しみながらも逞しく生き続けなければ成らない。

いつも想うのだが、復興、復旧に向けた動きが遅すぎる。この言葉が震災直後のまだ混沌とした中で叫ばれたのであれば、人々に共鳴を起こすかもしれないが、震災発生から半年も過ぎたこの時機に、「海と生きる」と言われても、「あーそうですか」と言われてお仕舞いだ。昨今の中学生でも、もう少し気が利いたキャッチフレーズを考えるのではないか。

9月23日の秋分の日に、家内と義理の母、そして義理の母の妹の叔母を車に乗せて、気仙沼へ墓参りに戻った。セレナの後席では、後期高齢者の美人姉妹の他愛のない話が尽きずに、気仙沼までの2時間があっという間に過ぎた。この日は日頃の行いが良いせいで、晴天の墓参り日和だった。観音寺には多くの信者が墓参りに来ていた。墓参り後、化粧坂によって、おいしいお煮しめをご馳走になった。お向かいの魚屋さんでは好物のイカの塩辛を二パックも頂戴し、ありがたかった。中々普通のスーパーでは売っていない絶品の塩辛だ。

合同慰霊祭(気仙沼市)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/09/12 7:09気仙沼 

前橋から来た兄と二人で、気仙沼市で開催された合同慰霊祭に出席した。式には千葉家の遺族の姿もあった。午後2時半からの開催なので、午後2時前に少し早目かなと思いつつ会場に到着したが、とんでもない。会場の中央席はほぼ満席の状態だった。案内の男性に促されて側面の階段席に座った。出席者数は2000名を超えていたのではないか。

式はアマチュアのコーラスグループによる余り上手では無い合唱ではじまった。それでも心をこめて歌っていただいたので、あちこちですすり泣きの声が聞こえた。黙とうは発災の時刻である午後2時46分から1分間行なわれた。次に気仙沼市長による式辞、お歴々による追悼の辞と進み、お別れの言葉が女子高校生と鹿折の酒屋のご主人によって披露された。特に酒屋のご主人による言葉が良かった。亡くなった父親への自分の今の姿を問いかける口調が切実として良かった。彼は「自分は生きています」と言う言葉で始めた。酒屋の4代目のご主人には、震災後の自分自身の無気力感と4代目であることの使命感が心の中で葛藤を起こしていた。「泣いた分だけ幸せが訪れる」を信じて今を生きると結んでいた。正直な心情が出ていて感動させるものがあった。

それに対して市長を始めとするお歴々の言葉には「復興」の2文字が何度も登場する。早く復興することが死者への追悼となると言う論理だろうが、果たしてそうだろうか。この祭り事は死者に対する慰霊祭であって、復興を誓う式ではない。お歴々は復興を早く果たすから今を我慢してくれと言っているように思えてならない。震災後6カ月たってもさっぱり気仙沼の先行きが見えない。なぜ死者があれだけ大量に発生したのか、行政を担うものとしての反省の弁がない。行政も今を切り抜けるのに精一杯なのだろうが、もっと真摯に死者を弔う言葉を捧げてほしかった。

そして頂けなかったのは、代表献花と呼ばれる地元の名士や政治家による献花だった。一人一人の役職と名前が呼ばれ、献花台で一人一人が花をささげる。これが5名程度だったら我慢もできるが、数十名となると我慢も限界だ。兄と二人で途中で退場しようかと思ったが、周りの参列者は黙々と我慢されている。皆さんは、この後に続く「参列者献花」において、自分自身の手で献花したいので、この売名行為ともとれる「代表献花」を我慢しているのだ。

参列者献花も数千人の規模となると、統制も難しいが少しやり過ぎの感があった。粛々と荘厳な式を演出しようとしているのだが、港町気仙沼には似合わない。まるでベルトコンベアーに乗って献花しているようだった。

式への参列が終了すると、兄と二人で文句を言いながら気仙沼から一関へ愛車スカイラインで向かった。とは言え、この式へ参列したのは、震災で死んだ兄夫婦だけでなく、この震災で亡くなられた知人や縁者の御霊を慰霊したかったからだ。私自身、これで心に一つの区切りをつけたと思った。三

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趣味の時間(アコギ)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/09/09 15:02自宅 

クラシックギターはあまりうまくは無いが、中学二年生の時に始めた。この最初のギターは私の祖母が横須賀のボロ市で買ってきてくれたものだ。祖母が旅行する時代には新幹線が無かったので、多分急行列車で上野に向かったものと思われる。その祖母が横須賀から気仙沼へ戻るときにこのギターを担いできたのだ。祖母は誇らしげにギターを持ちこんだのか、恥ずかしげに持ち込んだのかは分らないが、周りにいる列車の乗客は何とモダンな年寄りと思ったことだろう。

社会人になって初めて自分のお金でヤマハのクラシックギター(C-120)を購入した。確か1万5千円位の価格だったと記憶している。そのころ住んでいた独身寮には先輩諸氏に結構楽器の好きな人が多くて、6畳にドラムセットを置いている人やチェロ弾き、電子ピアノ、フルート、ギターがあった。この自費で初めて買ったクラシックギターは今でも我が家に置いてある。

アコースティックギター(アコギ)は昔はフォークギターと呼ばれていたと思ったが、私は歌が下手なので購入したことがなかった。でもたまに友人のフォークギターを使わせてもらうと、スチール弦の響きが心地よかった。そんな私が還暦近くになってアコギを購入することにした。きっかけは甥が額面40万円もするアコギを購入したことだ。写真だけでしか見なかったが、何とも美しいギターだった。私も欲しくなったので家内へ一様相談して見たが、事務所へ置くことで許可を得た。

アコギはアマゾンで購入した。気が弱いもので甥の40万円に対して3万2千円のアコギにした。

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YAMAHA FG-730S/NT, ¥ 32,550

KORG(コルグ) クリップ式チューナー AW-2G ブラック AW-2G, ¥ 1,980

キクタニ ギタースタンド GS-102B, ¥ 1,380

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合計: ¥ 35,910

クラシックギターに較べてアコギは竿部分の幅が狭くて、慣れるまでしばらく時間がかかりそうだ。しかし流石にスチール弦の響きが素晴らしい。クラシックギターのナイロン弦の響きに慣れていたので別世界に入った境地だ。

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趣味の時間(オーディオ)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/09/08 14:40自宅 

最近、EV(Electric Voice)スピーカーの低音域の歪むが気になりだした。特にある音量で聴くとその歪が顕著だった。その原因を探るべくスピーカーの前面ネットを外してみると、30cmウーファーがご覧のようにエッジのウレタン部がボロボロに成っていた。

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EV用の新品の30cmウーファーへ取り換えると、それだけで出費が2万円となってしまう。ネットで調べると自分でウーファーのウレタン部を取り換えるオーディオファンが結構いたので、私もこのウレタン部を取り換えることにした。ウレタンフォームの販売元は北海道石狩市にあるファンテック 株式会社と紹介されていた。

ネットで注文したEVのStatus60用の30cmウーファーのウレタンフォームの型および値段は下記の通りです。 左右のスピーカーとも取り換えたので数量は2となります。

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(BX12) 2,900円 x 2 = 5,800円

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現物が手元に届くと、軽くて何ら特別な加工も行われていないので、値段の2900円は少し高いかなと思った。しかし新品を購入すると2万円を超すので、やむを得ない選択だった。

以下、私が行った修理の手順を示します。

1. Status60からウーファーをプラス(+)ドライバを使って取り外しました。

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2. 実際にウーファーを取り外して単体の状態で点検すると、あちこちウレタンが剥がれており、かなり酷い状態だと言うことが分りました。

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3. 鉄フレーム部とプラスチックの振動部から完全にウレタンを除去するために、写真の様にカッターナイフを使いました。他のサイトではウレタンと接着剤をこそぎ落とすために、シンナーの様な薬品を使う様に勧めていましたが、私の場合にはカッターナイフだけで十分でした。最後に水に浸した雑巾で綺麗に拭いて見た目を良くしました。なおこそぎ落とす際に細かいちりが発生するので、必ずマスクをする必要があります。

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4. 剥離作業が終了すると、新品のウレタンフォームを鉄フレームに仮に取り付けました。幸いなことにそれはフレームとぴったりと合いました。それから木工用の速乾ボンドで慎重にウレタンフォームとプラスチックの振動部を接着させます。なおオリジナルではウレタンは表側で重なっていましたが、私の場合には作業性から裏付けにしました。

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5. ここで接着作業は終了したと思いましたが、実は周辺のプラスチックと中央の紙の振動部の接合が大分割れていることが分かりました。

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6. この部分の接合には適当な部材が無かったので、金属のアーク溶接の様にスポットでボンドを垂らして接合することにしました。ご覧のように縁を複数の白い点(ボンド)で接合しました。

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7. ボンドが半乾きになった時点で、スピーカーの筺体へ戻しました。

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出来上がりは下の写真の通りです。音はどの領域でも歪まなくなり、見た目はともかく改修は成功したと自己満足しています。特に大音量で素晴らしい音を聞かせます。なお白いボンドは完全に乾くと透明に成るので、見た目をそんなに心配していません。三

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気仙沼中学校第21回生のジダバタ写真Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/09/07 6:57気仙沼 

生身の顔と写真の顔の印象が大分違う人が居る。私の家内などは元も良いのだろうが、とても上手に写真を撮られる。運転免許証に写っている本人の顔を見れば、私の場合と家内の場合では印象が雲泥の差だ。まあ私はもっぱら写す側なので、自分の写りの良さを気にしたことは無いが。もっとも息子からある時、なぜ頭を白く染めるのかと問われ、私は返す言葉が無くて、悔しい思いをした。男は外観では無いと思いつつ、気にしている自分が居た。

来年に還暦を迎え(私の場合には3月生まれなので、本当は再来年なのだが)、先月8月14日に私達同年生の物故祭が開かれ、その後の懇親会での集合写真が昨夜、拙宅に送られてきた。郵便封筒の表書きには、何処かで見たことがあるへたくそな文字で私の名前が書かれていた。考えてみれば、懇親会の前に会費を支払ったときに自分で書いた字だった。自分の場合には丁寧に書こうとすればするほど、バランスの取れない破壊された文字になってしまう。こんな私でも中学校一年生の時に英文のペン習字に選ばれた。しかし指導する若き笠松先生は私の文字を見て、最後には出展を諦めたようだった。

写真を見ると皆様それなりに年輪を積み重ね、ほとんどが歳相応の諦めが悪いジダバタした写りなのだが、中には随分若く見える女性が居る。我がクラスの3年2組の女性陣は身近に見ているだけに若くてとても美しい。男性陣は写真を見ただけでは、誰が誰かは分らない。中には恩師と間違えそうな風貌の人もいる。

出席者は法要が174名、懇親会が145名だった。支出は法要が営まれた観音寺へのお布施が2万円、ホテルの費用が57万円だそうだ。安いのか高いのかは分らないが、懇親会の会場となったホテル観洋が岬の上の高台にあったため被災を免れ、気仙沼人としても大変助かっている。

来年は還暦祝いが予定されているが、その時、震災後の同年生のそれぞれの仕事や生活が安定していることを祈る。三

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Aki2011/09/03 12:02自宅 

先週、富谷町のエバンスにコーヒー豆を買いに行った時、帰り際、ご主人からオーディオに関する質問を受けた。

何でも古いカセットテープがあって、そのテープの音をパソコンへ取り込みたいと言う要望だ。普通の音楽音源であれば、仮にパソコンへ取り込んだとしても、とても聴くに堪えない音質だと思ったが、理由があった。雑誌社の記者時代のインタビューの記録がカセットテープに入っているので、それを保存するためだった。

一番簡単な方法は、パソコンに取り付けたマイクでラジカセの音を拾う方法だが、ご主人は3000円位の変換ケーブルで取り込めるはずだと言うお話だった。パソコンからオーディオ機器へ音源を流す方法は知っていたが、逆にラジカセの音源をパソコンへ送る方法は知らなかった。タイミングの良いことに、日経新聞の裏に「オーディオ熱ふたたび」という黒崎氏の記事が載っていた。これを参考にこのようなA-D変換装置がネットで売っていることを知った。「Sound Blaster X-Fi Surround 5」と言う商品は、D-A変換およびA-D変換の両方ができる。しかもA-D変換では通常よりも高いビットレイトでデジタル化できる。すなわちハイレゾ音源を作成できる優れものだった。

早速、アマゾンで下記の商品を注文した。

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1 Sound Blaster X-Fi Surround 5 ¥ 6,176 

2 ハイパーツールズ 10m 光デジタ ¥ 2,583 

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合計: ¥ 8,759

外観は次の通りだ。左がノートパソコン、真ん中が「Sound Blaster X-Fi Surround 5」で、右端はスピーカーの切替器だ。「Sound Blaster X-Fi Surround 5」とパソコンはUSBケーブルでつなぎ、「Sound Blaster X-Fi Surround 5」とオーディオのアンプは角型コネクタの光ファイバーケーブル(10m)で繋いだ。

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今まではMP3音源をCD-Rへ焼き付けてCDプレーヤーで再生していたが、パソコンから直接オーディオ用アンプを駆動できるのでCDを取り換える手間は省ける。出費も9千円程度で助かった。もっとも聴いている音楽は大したことは無いのだが。(注、このブログ記事を書きながら、ビーナッツの「情熱の花」がEVのスピーカーから流れています)

Nothing is impossibleShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/09/01 8:44 

今朝(9月1日)の日経新聞を通勤の電車の中で読んでいたら、今月から始まる室伏稔氏の私の履歴書にこの言葉「Nothing is impossible」が書かれていた。

否定の意味を含む主語をさらに否定の意味を含む補語で結ぶ。このような語法は例えば日本語でも「食べられないことは無い」「涙を流さずにはいられない」の例があるが、前者は消極的な肯定で、後者は積極的な肯定だ。「Nothing is impossible」は果たしてどっちか。これを「やってみたら」と約するのか、「絶対出来る」と約するのかで意味合いが全く異なる。室伏氏の文では強い意志の表れと書いているので、多分そうなのだろう。私流に考えてもimpossibleの言葉の響きが強い意志を表しているように思える。

29日から31日にかけて甥達二人を連れて気仙沼へ行ってきた。先週にも家内と一緒に気仙沼へ行って、今回の帰省の準備をして来ていたので、予定通りに下記に示すやるべきことをやってきた。(英語では We have done what we have to do. と言うのかな)

  1. 日興証券仙台支店にて、大山氏のご助力を得て資産相続の手続きを完了
    1. 相続資産引継ぎ先指定書を作成(相続人)
    2. 特定口座開設者死亡届出書を作成(相続人)
    3. 相続上場株式等(相続)移管依頼書を作成(相続人)
    4. 兄は株の売買のほかに、いわゆる投資信託をやっており、大山氏からその仕組みを色々と説明していただいた。一言でいえば、自分が直接株や債券の売買をするのではなく、誰か専門家に委託して取引をしてもらい、その利益を配分するやり方だそうだ。
    5. 私も甥達も全くの素人で、多分説明の半分も理解していないのだが、ここで相続した資産の処分について決断が必要だった。結論から言えば、相続した兄の資産を甥が即売却することも可能だが、甥は当面そのまま置いておくことにした。
  2. 法玄寺の泰玄上人を訪ねて、今後の葬儀等を相談した
    1. 夫婦の戒名を甥達の前ではじめて披露してもらった。二人をよく知る泰玄上人が考えてくださった戒名をお聞きし、私自身、何とも壮言な響きだと感心した。
    2. 津波で流されたご先祖様の位牌は、過去帳形式の位牌として一つの位牌にまとめ、合計13名の故人の戒名、俗名等を示す目録を泰玄上人にお渡しし、泰玄上人のお手による過去帳への筆書きを依頼した。
    3. 来年3月11日に予定している葬儀の形式について相談した。今のところ甥達と私の素案では、通夜、葬儀は家族、親戚だけの密葬として、その代わりに広く兄夫婦の友人、縁者のための「偲ぶ会」を葬祭会館またはホテルで開く案を示した。基本的には泰玄上人よりご理解を頂戴した。
  3. 兄が残した水産加工工場の最大の取引先である「超○」の仮事務所へ挨拶に出向いた。
    1. 仮事務所はスーパー新鮮館の近くにあった。泉社長と小松部長に応対していただいた。
    2. 泉社長のご説明では朝日町にあった保冷倉庫も近くにあった事務所も被災しており、やはり事務所にあった取引記録も流されたそうだ。
    3. 私からは兄の工場の取引記録も津波で流されており、自分達では過去の取引状況を把握できないので、「超○」さんから新しい記録が出て来た場合には誠実に対応させていただくと要望した。「超○」さんからは特に異論がなかった。
    4. 何とも曖昧な言い分だが、両者とも過去の取引記録が残っていないのであれば、やむを得ない表現だと思う。
    5. 最後に「超○」さんにお勤めの従業員の安否をお聴きしたが、残念なことに車で逃げた30代の女子事務員が1名お亡くなりになったそうだ。お二人にお悔みを申しあげた。
  4. 不動産の相続の手続きを司法書士(小野寺哲五朗先生)に委託
    1. 遺産分割協議書、被相続人の戸籍謄本、相続人の住民票、法定相続人全員の印鑑登録証明書を提出
    2. 相続手続き業務委託書を作成
    3. 固定資産税納付証明書は未取得のため小野寺先生へ委託
    4. 小野寺先生ご自身の事務所も川口町で被災しており、先生は赤岩で事務所を再建されていた。

31日の午前中に予定していた業務を終了し、愛車スカイラインで気仙沼から一路、一関を目指した。甥の康介にはスカイラインの狭い後席で窮屈な思いをさせてしまった。途中の千厩で朝日屋さんのカツカレーを御馳走したので勘弁してくれ。甥達をJR一関駅で降ろし、私は一人で東北自動車道を仙台へ向かった。被災証明書があるお陰で往復の4000円がタダに成る。これは本当に有りがたい制度だ。9月からは中型以上のトラックの無料制度が打ち切られた。混雑していた高速道路も少しは緩和することを期待したい。三

学者でもあるまいし(Part5)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/08/27 10:25雑感 

わが国の宰相がようやくお辞めになると正式に発表した。何やら「やるべきことは全てやった」と自画自賛されているそうだが、日本のドン・キホーテとして長く歴史に名を残すのではないかと、宰相に対しご同慶の至りと、私も心より宰相の業績を絶賛しているところであります。「平成の開国」「奇兵隊内閣」と自ら明治維新の高杉晋作になぞらえて、さぞやいい気分だったのではないでしょうか。このような偉大な宰相を我が仙台市のとある自治会組織に巣食うある人物になぞらえるのはいかがかとお叱りを受けそうだが、あえて類似点を挙げると、独りよがりの使命感と詭弁の達人の二点をご指摘させていただきます。

この人物は前の会長を追い落とし、自らが会長に成り上がると、総会における議長を自らが兼務し、異例の短時間で年に一度の町内会総会を切り上げ、やりたい放題の善行を自らの信条として邁進しているそうです。あなたが道を歩けば、誰もが居住まいを正して、道をお譲りするでしょう。そんな徳を積んだ人を批判する人が居るはずが在りません。きっと模範的な素晴らしい町内会として、仙台市より会長が表彰されることは間違い在りません。もっともあなたは取り巻きの一人に、署名活動を依頼する必要が在りますが、さて何人、あなたの徳を理解できることやら。

明治維新はわが国の西の諸藩が勝者であり、時の征夷大将軍である徳川幕府に最後まで忠誠を誓った東北、上越の諸藩が敗者で在ります。開国すなわち鎖国政策を改めることに反対し、攘夷と言って諸外国を排斥しようとしたのは薩長の皆様ではなかったでしょうか。東北の列藩同盟は、大政奉還と言う名前で正当化されている一部の公家と薩長による不当なクーデターに対して、真に正当な時の政府、徳川幕府に忠誠を誓った志士であります。だから「奇兵隊内閣」と言われると、この東北列藩同盟の末裔である東北人には内心面白くないので在ります。東北には熊襲がいる未開の土地だと看破されたサントリーの社長が居ましたが、あの時東北の自治体の長は鋭く抗議しましたね。しかしわが国の宰相が「奇兵隊内閣」とのたまった時に、自治体の長は誰も抗議しなかったのは、深い思慮があったからに違い在りません。そしてそれと共に薩長同盟の立役者である坂本竜馬の人気に水を差すことを憚ったからに違いありません。日本の西の人たちが坂本竜馬を英雄視するのは良く分かりますが、東北人には天晴れ、中々の人物と内心はともかく、表面的には度量の広さを示したかったのでしょう。まずは宰相の管さん、お疲れ様でした。三

ヴァンガード(気仙沼)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/08/26 8:53 

所要があって25日(木)、家内と二人で愛車スカイラインで気仙沼へ往復した。朝6時45分に仙台の自宅を出て、泉インターから東北道に入り、一関インターで降りた。心配していたインター出口での渋滞が全くなく、スムースに気仙沼入りできた。

所要は1時間余りで終わり、この後まっすぐ仙台へ戻るのも味気ないので、さてどうするかと家内と相談したが、竈(かまど)の店主の容子ちゃんに会いたいと言う私の強い希望を家内が受け入れてくれた。携帯電話で連絡すると彼女は津谷の自宅に居て、午前10時半頃に南町のヴァンガードで待ち合わせすることにした。

ヴァンガードは津波で被災している。店主の強い希望で、同じ場所でヴァンガードを再開していると聞いていたので、再開後のヴァンガードにも興味があった。家内と二人で定刻に店に入るが、客は全くいない。店主が愛想よく私達を迎えてくれた。4人掛けのボックス席に座って、店の様子を見ると、レジの近くの棚にLPレコードが多数並べられていた。多分、すべて潮を被っていると思うが復活できたのだろうか。BGMは小さなCDラジカセからジャズを流していた。私はアイスコーヒーを、家内はホットコーヒーを注文した。出されたアイスコーヒーはお世辞にも美味しいとは言えないが、暫しの涼を与えてくれた。ともあれ、ヴァンガードの復活は気仙沼人には最高の癒しだ。

暫く待つと真打登場、ショートカットのスリムな容子様が颯爽と現れた。うむ、いつ見てもお美しい。とても還暦前の女性とは思えない。竈の復活はどうやら仮設の屋台村から始めるようだ。南町の店主が集まって青龍寺の駐車場に仮の店舗を開くが、その一角に竈を再開する。なお、竈に代わる新しい店の名前を考案中だとか。開店のときには私と家内は是非お手伝いをしたいと申し上げた。それとドイツ旅行を計画中と言うお話なので、私と家内がカバン持ち及び秘書としてご同行申し上げたい、と頼んだ。何しろドイツには娘のショートステー先であり、一昨年にその家の娘さんイザベルを受け入れたキーファーバー家がある。是非ともイザベルの家族に会ってみたい。特にイザベルの母親のグンダは個性があって面白い。またイザベルのお婆ちゃんは絵描きで、彼女の絵は我が家の廊下にも飾ってある。広大な敷地があってきっとお金持ちの家なのだろうが、この震災の時、何度も見舞いのメールを送ってくれた。律儀なドイツ人はとても信頼できる。

結局、我々夫婦は他に客が居ないことを良いことに、容子ちゃんと一杯のコーヒーで昼過ぎまでだべった。余りにも申し訳ないので、ホットコーヒーの追加を頼んだ。このホットコーヒーは何とか飲める。会計は容子ちゃんが払った。こっちが誘ったのに、申し訳ない。南町の仮設の屋台村がいつ開かれるのは知らないが、南町のあちこちで復活の息吹が聞こえるようだ。何と言っても瓦礫がほとんど無くなったことが大きい。しかしもっと人が居てもよさそうものだが、相変わらず、震災前と同じように人の姿が少ない。イベントに頼らずに、常に普段から人が行きかう街を復活させたい。三

残暑見舞い?Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/08/23 7:43雑感 

ここ数日とても寒い。家内は何と羽毛布団を出して寝ていた。私は寒いと言いながらも二日町にある事務所ではエアコン(摂氏28度設定)を掛けている。全く矛盾することだが、朝5時50分に事務所のドアを開けると中はむっと暑い。そこで少しでも快適に成りたくて、云わば機械的にエアコンのスイッチを入れる。確かに省エネが叫ばれているが、東北電力だって余りにも省エネが進むと、自分達の収益が下がると懸念しているのではないか。決して東北電力のお偉方は言わないが、余った電気は捨てようがないので、余力を持ってほどほどに使ってもらいたいのが本音だろう。

夏に成ると通勤着の作業服を事務所で脱いで、私流のスーパークールビズのTシャツに半ズボンのスタイルでパソコンのディスプレーに向き合う。

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写真の左のモニタがメインのモニタで、丁度このブログを書いている。右側のモニタはサブモニタで常にメーラー(Outlook)を開いている。

先日、兄の事務所に勤めていて、この震災で亡くなった三浦さんの労災申請が終了してホッとしている。後はご遺族との面談および国の審査があって、はじめて申請が認められる。先日の河北新報の報道ではこの震災に伴い、宮城県だけで1000件以上の労災申請があったそうだ。この労災申請は正規従業員だけでなく、パートタイマーやアルバイトの従業員まで救済の対象となる。宮城労働局から拙宅に電話があって、係官からこの労災申請についての説明があって、このことを知った。もしもこのことを知らない事業所があったら、是非、宮城労働局へ相談してみることだ。

29日には甥達二人が来仙する。遺産相続の手続きのためだ。証券会社や司法書士事務所をまわる。これが済むと震災後の事務的な処理がほぼ終了する。後は来年の3月11日に予定されている兄夫婦の本葬に向けた準備と本家の復興に向けた方針を練ることとなる。兄夫婦の戒名については、法玄寺の泰玄上人がすでに二人にふさわしい名前を考えていると仰っていたので、ご先祖様の位牌の復活と合わせて、泰玄上人にお願いした。もっとも位牌は過去帳形式の位牌として、狭いマンションでも安置できるようにする。ご先祖様からは復興が遅いと叱られそうだが、生きているものは生きているものの都合があるもので、赦されたい。三

杉目先生ご逝去(気仙沼)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/08/19 9:53気仙沼 

昨夜(18日)、気仙沼の竈を経営する容子ちゃんと電話で話していた時、杉目先生の消息を訊かれた。確か御病気で入院されていたことは聞いていたが、その後のことは知らなかった。

それで恩師故畠山先生の奥様である貞子ちゃんと故中村先生の奥様である伊沙子先生に電話で訊ねたが、いずれも先生仲間から特に情報は受けていないと回答された。そして今朝(19日)、貞子ちゃんから杉目先生の訃報が届いた。先生は3月の震災前にすでにご逝去されていたそうだ。知らなかったとはいえ、改めて故杉目俊夫先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。(追記:一年先輩の小田明紀氏の情報では、先生のご逝去は平成23年3月21日でした。謹んで訂正申し上げます)

私自身、先生との思い出は淡いものだが、しっかりと覚えている。先生は魚町に下宿していた時代があって、そこから紫さん経由で気仙沼中学校へ通っておられた。私も通学路が紫さんだったので、途中お会いすることがしばしばあった。杉目先生は歩きながら、いつも朗々と口笛を吹かれてた。曲名までは分らなかったが、何とも元気のよい(?)先生がいるものだと子供心に感心した。思い起こせば兄の担任だったこともあって、私が兄の教室に忘れ物を届けに行った時、教室の先生から渡してもらおうと言う私の意図を遮って、直接お兄さんへ渡しなさいと言ってもらった。上級生の教室に入ること事態、私にとってとても気恥ずかしいことだったが、兄も多分相当に恥ずかしかったに違いない。合掌、三

物故祭(8月14日)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/08/15 10:08気仙沼 

この日は家族全員、午前3時に起床して、午前3時37分に仙台にある我が家を出発して気仙沼へ向かった。早起きした理由は、前日のテレビニュースでこの日はお盆の帰省ラッシュのピークにあたり、高速道路がかなり渋滞すると流していたからだ。幸いに気仙沼へは約1時間半で到着した。そのまま入沢のお墓へ直行し、午前5時ごろに山の斜面の頂上にある祖先の墓に到着した。この時間、早朝にも関わらず、大勢の墓参りの人が居た。お墓は先日、家内と二人できれいに掃除しておいたので、今日は花を生け、焼香して祖先を弔った。

家内の実家のある館山には、午前6時前に到着した。誰も居ない家の鍵を空けて、部屋の空気を入れ替えると、早速朝食を食べた。震災以来、この家内の実家に何度もお世話になっている。私の実家が津波で全て流された状態なので、この家が神仏の思し召しで残っていてとても有り難い事だ。

午前は亡くなった恩師の家に家内と二人で弔問し、奥様と暫し歓談した。午後からは観音寺で物故祭があるので、館山へ戻ると暫し昼寝した。畳の部屋でごろ寝することが、何と気持ちよいことか。

物故祭には約170名が参加したそうだ。この震災の影響で参加者は限られると思ったが、存外の人数だった。

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午後4時半からはホテル観洋にて参加者全員による写真撮影が行われた。

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その後、テレビのニュースキャスターのような素敵ないでたちの美しい葛さんによる開会宣言によって宴会がスタートした。

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次に実行委員会の委員長である石川君による開式の辞があった。我が年度では小中学校を通じて彼の存在がもっとも大きい。自分自身の家業も被災しているにも関わらず、一生懸命、この日のために努力していただいた。

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さらに千田君と高城君による物故祭が開かれるまでの経緯が説明された。千田君の家も流され、友人の佐々木氏の家で家族全員が避難したことがブログに書かれていた。このように千田君一家を快く引き受けた佐々木氏に敬意を表する。高城君は横浜から、気仙沼以外の地に住む同年生の物故祭への参加希望を取り仕切った。彼の努力が無ければ、中々これだけの人数の参加者にはならなかっただろう。改めて敬意を表する。

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我が3年2組の綺麗所の集合写真を公開します。皆様の変わらぬ美しさに敬服いたします。とても還暦前には思えません。41歳の厄年前、いやいや32歳の厄年前の物故祭の写真と言っても十分に通じる若々しさではないでしょうか。

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最後は宴会の司会を担当された副委員長の本山君です。少し照れながら話す彼は、誠実な人柄がにじみ出ています。司会を途中で妨害する男の出現にも関わらず、優しく対応していました。

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私達21回生の物故者は我がクラスの菊池志郎君をはじめとする32名だった。そして恩師の物故者は畠山専市先生をはじめとする4名だった。本来ならば故人の遺族をお呼びして、故人の思い出話で追悼すべきだと思うが、何しろこの大震災で地元の対応もままならない。失礼とは思うが赦されたい。また自分の覚えている範囲で、故人を偲びたい。

2組の恩師の畠山専市先生は我々夫婦の仲人であり、地元での心の支えだった。奥様の貞子ちゃん(失礼!”貞子様”)のお人柄もあり、盆暮れには夫婦で寄せてもらった。糖尿病を患い、ほとんど失明の状態だったにもかかわらず、暖かく迎えていただき昔話に盛り上がった。

5組の小松紀之先生は、先生らしからぬ、凶暴な先生と言う印象が強い。やたら生徒を足蹴りして、熱く生徒を指導してくださった。今の学校の飼育化された先生(失礼!)に較べれば、善悪がはっきりしていて清々しさが残る。もっとも当時は恐怖が清々しさを上回っていたが。

6組の佐藤俊市先生は背が高くてダンディな数学の先生だったと記憶している。物静かな教え方だったと思うが、私が数学好きになった恩人である。大きな三角定規を持って黒板に白墨で線を引く。ピタゴラスの原理はかの先生の教えではなかったか?

11組の中村宗哲先生は私が中学二年生の時の担任である。縁あって、仙台泉区にある私の自宅の隣に住まわれている。奥様の伊沙子先生も気仙沼小学校の教諭をされていた。昨年10月の葬儀には私達夫婦も恩師として、お隣としてできるだけのお世話をさせていただいた。中村家は仙台藩士の家柄で、子孫には伊達正宗の”宗”をつける習わしがあるそうだ。

伊沙子先生から我々が中学校時代の先生方の生態についてお聞きすることがある。

とくかく飲む酒の量が半端では無かったそうだ。南町の自由亭をはじめに、各先生の家を飲みまわる。気仙沼のお役人やサラリーマン、自営業の男子は皆、仕事が終わった後は飲みまわるのが仕事だったから、先生方もご同慶の至りだ。何でも化粧坂の藤野先生のお宅がたまり場だったそうで、何とも良き時代だったのでは。

同年生については、何しろ400名を超す仲間が居るので、小学校6年間、中学校3年間を通じて一度も同じクラスにならなかった仲間も多く故人の多くが記憶にない。特に女子については、故人との思い出を語るのは難しい。したがって記憶に残っている故人だけとなり、赦されたい。

1組の菅原秀二君は中学校1年生の時に(注、自分は小学校時代の記憶だと勘違いしていた)、大川での水泳の最中に溺れて死亡した。夏休み中の事故だったと思うが、私は佐藤行雄君と二人で暑い盛りに、新城にあった宝鏡寺での葬儀に参列した。

2組の菊池志郎君は中学校卒業後、学校は違ったが一関にある学校へかよった仲間である。彼はスポーツマンで、足は速いは、サッカーは人一倍上手でハンサムな点も、私とは正反対の良い男なのだが、何故かウマが合った。卒業し就職後もその関係は続いた。私が仙台へ出張すると、彼のアパートに泊めてもらうこともしばしばだった。結婚し静岡市に居を構えてからは縁遠くなったが、一度だけご夫婦の家に泊めてもらったことがある。

彼との中学校時代の思い出は、彼が女子生徒からもらったラブレターを私に示して相談を持ちかけられたことだ。「こんな手紙をもらったけれども、どうしたらよい」と言われても、相談する相手が間違っている。わたしもドキドキしながらその手紙を見せてもらった。

彼が故人になったことを知ったのは、専市先生が亡くなったことを志郎君に知らせるために電話したことがきっかけだった。奥様が電話に出られて、「実は、夫は今年の2月に亡くなりました」と告げられた時は絶句した。その前の年の12月に肺がんで入院し、がんに抵抗する素振りを全く見せずに、風の様にあの世に旅だったそうだ。暫く奥様とお話ししていて驚いたことは、志郎君が晩年になって嘆いたことが一つだけあって、それは気仙沼高校への受験に失敗したことだ。私にはそんな話を一度もしたことがない。一関の高校でもバトミントン部のスター選手として活躍していたのにといって、奥様を慰めはしたが。でもお子様も立派に成長し、悔いのない末期だったのではと思う。

3組の吉田武二君とは剣道部の仲間でもある。本山、金森、荒木、啓二、武二とチームを組んで試合に臨んだ。気仙沼中学校の剣道部の歴史で、史上最弱のチームと先輩から揶揄されながらも、何とか地区大会に優勝し、あの暑い夏に仙台まで県大会に出場するために行った。試合結果は散々だったが、今自分自身が仙台に住む様に成って思うのは、あの頃の気仙沼の剣道部の練習は半分遊びだった。仙台は当時から学校間の競争も激しく、父兄や指導者の熱意も気仙沼の比ではない。でも半分遊びの練習でも十分だったのではないかとつくづく思う様になった。皆が優勝するわけでもあるまいし、のんびりとだらだらと練習し、指導の政井先生が来るときだけ一生懸命だった。

閑話休題。武二君のお兄様も卒業した剣道部の大先輩で、とにかくそのお兄様の指導を受けるとその防具を着た姿が何ともかっこよく、武二君が羨ましかった。でも中学三年生の夏休みが過ぎて剣道部を後輩たちに譲るようになってから、我々が集まる機会が少なくなり、やがて縁遠くなった。そして彼に何があったのかは知らないが、卒業間際の3年2組の教室である事件が起こった。休み時間に隣のクラスの武二君が教室で椅子を投げて暴れているのだ。止めようとすると怒り狂った彼が私の頬を思いっきり殴って教室を出て行った。

昭和53年に彼は亡くなった。その早すぎる死を悼みながら、もしも機会があったら彼と酒を酌み交わし、あの時彼に何があったのかじっくり聞きたいと思ったが、それは叶わぬこととなった。

最後は9組の畠山哲(さとし)君の思い出で締め括りたい。彼とは9年間で一度も同級になったことがない。そして彼と会話をした記憶も無い。それでは何故思い出を書くのかと問われそうなのだが、実は南町のご近所だったからだ。

私の家は今のエースポートの真向かいの「唐桑屋」(南町3丁目1-13)という魚屋、彼の家は2軒隣の食堂の「丸仁(まるじん)」だった。兄弟の構成も男兄弟3人である点が全く同じで、3兄弟x2の6名で道路でバトミントンや凧あげをした記憶がある。しかしそれでも彼と話をした記憶がない。彼の父親はつるつる頭の教師で大島か唐桑からか定期船で通い、自宅のある丸仁へ出入りしていた。母親は良くしゃべる人で、私の母親と賑やかに喋りまくっていた。時代が移り、南町からご近所がそれぞれの新しい街へ分散しても、親同士の付き合いは続いていたようだ。

彼の訃報は私の母親から徒然なる話の中で聞いた。古町のアパートでひっそりと亡くなっていたそうだ。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌、三

前盆Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/08/13 10:52仙台 

今日は盆の入りの日だ。仙台市宮城野区の陽雲寺にある義父の清志が弔われている室内墓に家族でお参りして来た。午前7時半に泉区の我が家を出発し、仙台市内へ向かったが、交通量が少なく約30分でお寺に着いた。すでにお参りの信者がいたが、比較的少なく、ゆっくりと祖先を偲ぶ事が出来た。

気仙沼の大震災で亡くなった兄夫婦については、葬儀を終わっていないので初盆(新盆)には成らない。私はこの状態を勝手に「前盆」と呼んでいる。前盆供養に家内と二人で、先日気仙沼へ行ってきた。そして明日(14日)に気仙沼のお墓参りに家族で向かう。私は還暦祝いの前の年に行われる物故祭に参加する。参列する場合の服装に迷ったが、友達の猛さんに電話で聞いたところ、白の半そでに黒ネクタイ、下は黒ズボンでよしとし、略式ではあるが気仙沼流の礼服に落ち着いた。また平服でも可と案内にはあったが、平服は震災で礼服を失った人を念頭に書いているのだろう。

震災で亡くなった兄夫婦は霊の状態でこの世をさ迷っている。来年の3月11日に予定されている一周忌を正式な葬儀とし、二人に仏様になっていただく。そしてその後のお盆が二人の初盆(新盆)となる。ただしお迎えする家がまだ決まっていない。本来ならば、東京の鶯谷にある遺児の康介が住むマンションになるのだろうが、まだ独身につき、母の居る前橋でも良いような気がする。

故人を弔う単位は個人ではなく、家であって、家の代表である家長が弔いを司る。新しい家長である康介にがんばって欲しいものだ。

震災後5ヶ月Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/08/11 14:50気仙沼 

午前4時46分にいつものように起床するまでは同じだが、 今朝は事務所へ行かずに、愛車スカイラインで気仙沼へ向かった。気仙沼市役所と法玄寺に用事があったため、急遽、気仙沼行きを決定した。

東北自動車道へは午前5時に泉インターから乗ったが、普段よりは車の数がかなり多かった。どうもお盆の帰省ラッシュが始まったらしい。

いつものように若柳・金成インターで一般道へ下りて、花泉、川崎、千厩経由で気仙沼へ到着した。前回の帰省の時の様に、パトカーによる先導?がなかったので、順調に運転し、到着時刻は午前7時過ぎだった。気仙沼市役所には午前8時に入った。通常午前8時半から庁舎の業務が始まるのだが、市民課の窓口がいつも混雑するので早めの入庁となった。これが功を奏して一番乗りで母の住民票と亡くなった姉の除票を発行してもらった。

次に8時40分ごろ、法玄寺へ向かった。法玄寺の駐車場にはすでに3台ぐらい車が停まっていた。どうやらお墓の整備工事の業者さんらしい。この極暑の中、ご苦労様です。法玄寺では泰玄上人が在宅で、必要な書類に印鑑を頂戴した。ついでに泰玄上人に亡くなった兄、義理の姉に対する戒名(法名)を頂戴したいとお願いした。泰玄上人はすでに二人にふさわしい戒名をお考えの様で、甥達の前でご披露をお願いした。またすでにある位牌が津波で流されたので、位牌に代わる過去帳への記帳もお願いした。御上人様より直接戒名を書いて頂ければ、故人にとっても嬉しいことに違いない。

前回の帰省では震災地の写真を撮らなかったので、今回は魚町、南町から内の脇地区、市場前まで写真を撮った。魚の腐った臭いはそれほどでもなかったが、ハエは相変わらず多かった。

魚町と南町の海岸道路は50cmほど砂利で嵩上げされていた。この機会に思い切って海側だけ2mほど嵩上げすればよいのだが、なんか中途半端だ。さらに言えば、海岸道路を高さ20mの防潮堤仕様とし、内陸側からの取り付け道路は存在しない専用道路とする。この道路はお神明さんから魚市場まで直接結ぶ。

無題

イメージとしては下の写真の防潮堤の幅を広げ、その上を車が走る。

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男山の残骸は私には古き昭和を思い起こさせる建物なので、是非モニュメントとして保存してほしいものだ。

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魚屋の丸入さんのご主人が乗っていたハーレイ・ダビットソンのように見える。JR線路の反対側からここまで流されてきたのか。自動車は表面積が大きいので流されやすいが、大型バイクは重いものの密度が大きく流されにくいものだ。改めて津波の力を知った。

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復興のシンボルとして前回、電柱をあげた。今回の内の脇地区への訪問で、電柱に横木と碍子が付けられ、市内方面から電線が渡されている姿を見た。

この電気はこの辺で商売を復活させる人のために引かれたのであれば、朗報だが、まだ個別の商店や家には引かれていなかった。

全体的に震災地の復興は瓦礫処理の途中で、次のステップへは中々進んでいない。

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下の写真は魚市場へ水揚げする漁船が内湾を急いでいる姿を撮ったものだ。市場には大勢の仲買が待機していた。まずは魚市場に魚が水揚げされなければ、復興は進まない。

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気仙沼中学校21回生、物故祭の案内Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/08/09 6:15気仙沼 

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以前に比べて法要の費用が3000円から2000円に値下げされている。また平服でも良いと有りますが、やはり正装にすべきでしょうね。それから、今回の広告で集合時間が午後1時半となっており、私が電話連絡した人は午後2時しか知らない。多分大丈夫だとは思うが、遅れないようによろしくお願いいたします。

正装について良く考えてみると、気仙沼に在住の同年生で被災した人は、着の身、着のままで逃げたため、礼服を持っていない人も多いのではないか。そうすると正装ではなく、平服でもやむを得ないのではないかと考えられる。あまり自分の常識に拘る必要ない、と反省した。

先導車は兵庫県警Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/08/07 20:01気仙沼 

8月6日(土曜日)の午後10時から気仙沼の法玄寺で開かれる合同慰霊祭に出席するため、家内と午前7時に我が家のある仙台市泉区を出発した。仙台から気仙沼まで高速道路を使えて3時間で十分たどり着ける。

泉インターから東北自動車道の本道に入ると 、一般道路以上に多数の車で混雑していた。被災者に対する高速道路の無料化が効を奏して、車の往来が増えたのだ。しかし何よりもインター出口での渋滞を心配した。そこで通常は一関インターで一般道に下りるところを、若柳金成インターで下りた。しかしそこでも渋滞だった。気仙沼への到着が遅れるかもしれないと言う恐れでやきもきしたが、何とか関門を通過でした。

次に花泉方面から川崎町へ抜ける近道を通ったのだが、前方を兵庫県警のパトカーが4台に連ねて走っている。まるで宮様の巡幸を先導するパトカーのようだ。彼らの運転技術は卓越したものが有るが、如何せん(?)、速度制限をきちんと守る。中には2台のパトカーに前後を挟まれた軽自動車が居た。この運転手は多分痩せる思いだったろう。

この状態が気仙沼まで続いた。慰霊祭に遅れることを途中心配したが、日頃の行いがよいのか、仏様は我々をお救いくださった。式場には15分前に悠々到着した。

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合同法要には約40名が参加された。亡くなった従兄夫婦と孫の遺族も参加していた。各遺族は焼香と共に、七夕飾りのような小さな飾りをコメが入った入れ物に刺した。塔婆も受け取った。しかし私達の場合には兄夫婦二人のお骨をお寺で預ってもらっているので、塔婆はそのまま法玄寺に預ってもらった。その日の午後は、家内の実家の裏庭の雑草刈りに汗を流した。

翌日の日曜日は午前5時に起きて、午前5時半から入沢のお墓の掃除を開始した。陽が上がる前に掃除をしてしまおうと言う数名の家族がすでに来ていた。約半年ぶりのお墓は雑草が鬱蒼と茂っていた。以前は亡くなった義理の姉が掃除していたが、これからは私達夫婦の担当になりそうだ。

帰りは千厩の朝日屋さんで昼食を摂った。ハンガリー風のビーフシチューを頼んだが、味付けが濃すぎることも無く、薄すぎることも無く楽しめた。

原発容認論Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/08/05 9:05 

今朝(5日)の日経に「科学に後戻りはない」のタイトルで尊敬する吉本隆明が寄稿している。氏は今年で86歳になられたそうだが、その論調にはいささかも揺るぎがない。

我が国の宰相が「人類が手をつけてはいけない危険な技術」として原発を断じたのに対して、氏は人類の科学史の観点から一旦手をつけた科学技術は後戻りできないと看破した。同じような科学技術の発展にダイナマイトがある。悪魔にも女神にもなるノーベルの発明は、ノーベル賞として人類の文化の発展に寄与した。

それでは氏はどのようにこの危険極まりない技術を人類が支配したら良いと考えたのだろうか。自分なりに解釈してみた。

  1. 「原発は安全だ」と言う情宣を止め、「原発は危険だが有効だ」と国民に呼びかける
  2. 安全神話を今回の事故で暴露された乏しい安全に対する根拠や貧しい現場を隠す隠れ蓑とするのではなく、科学者と技術者が一体となって真の安全神話を作り上げる

しかし福島の原発事故の終息の目処が立たない限り、なかなか行政を含めて理解できない考え方だと思う。ただし我が国の宰相がいわゆるポピュリズム的に我が国の長期のエネルギー政策を個人の考えとして簡単に変更を表明すること自体に、原発と同様な危うさを感じる。

同じように危うさを感じる政府中枢の政治家が何人かいるが、全て共通点がある。ある政経塾の出身者でディベートと呼ばれる討論がうまい。私も日米学園で一度だけディベートを経験したことがあるが、あるテーマに対して賛成か反対かを議論で相手を打ち負かす技術だ。

すなわち自分自身の本来の考えとは関係なく、賛成派、反対派に分かれて、相手を議論で打ち負かせばよいのだ。「信なくば立たず」はどうでも良いのだ。

小泉元首相はこの言葉に当てはまる政治家で、けっしてディベート上手とは思えない。己の信念で多くの小賢しいディベート上手な政治家を蹴散らした。

現在の民主党政権の中枢にはこのディベート上手な政治家が多すぎ、その頂点の宰相を取り囲んでいる。これではディベート上手な宰相を倒せない。

岩手の小沢さんは小泉元首相と同じようなディベート下手の範疇に入る。果たして小泉元首相と同様に小賢しいディベート上手な政治家を蹴散せるだろうか?

期待と恐ろしさでお盆を迎えようとしている。

気仙沼はイタリアの港町Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/08/04 7:28気仙沼 

今朝(4日)のS新報の第一面では、気仙沼女子高校(昔は「畠山学園」と呼んでいた)が3年後の平成26年3月に閉校されると、報じていた。

入沢の山の上に、今にも倒れそうにそびえる蒲鉾形の体育館は、ある意味、男山の三階建ての古い建物と同様に、気仙沼のシンボル的存在として威容を誇っていた。果たして今後どうなるのか、また一つ気仙沼の想いでの建物が無くなる?

できればあの建物はそのまま保存して、プロの芸術や劇団のための世界的な施設として再スタートしたらどうだろう。芸術家は苦労せずに気仙沼湾の美しい風景をたっぷり描ける。教室は即席のアトリエとなるだろう。劇団員はあの体育館を使って気兼ねなく練習できる。音楽家も自分の楽器を持って、繊細なメロディーを奏でる。庭はオープンのコンサート会場となる。地元の小学生は別世界を垣間見るように、色々な芸術を堪能できる。

気仙沼が地形の良く似たイタリアの小さな港町と同じように成るのだ。音楽と芸術をこよなく愛するイタリア人のように、この気仙沼人がズーズー弁で世界各地から訪れる観光客をもてなす。

閑話休題、過去をあまり美化してはいけないのだろうが、色々な思い出が走馬灯のように甦る。

死んだ兄は姉妹校の東陵高校のPTA会長をやっていた時期もあり、実家では馴染みの深い学校だった。昭和30年代の魚屋時代に私はまだ小学生だったが、学校から魚屋へ帰ると、母から頼まれて何度も理事長の本宅へ刺身を配達したものだ。入沢の森病院の後ろから曲がりくねった坂道を昇ると、途中で学校帰りの女子高生とすれ違う。華やかな彼女達の姿をまともに見られなかった。

理事長の本宅は校舎の前にあって、広い庭園から内湾を一望できる。立派な瓦屋根を有する和風の本宅の玄関の引き戸を開けて、「唐桑屋です。カツオの刺身を持ってきました」と大声で奥に叫ぶと、お金を持った小母さんが現れる。

当時の気仙沼では個人の家への刺身の配達が当たり前だった。今でも兄達に聞くのだが、兄弟三人の中で、私が一番、割りを食ったのではないかと。兄達はずるくて、帰宅をいつも遅らせる。したがって配達の役目は一番年下の私だったのではないかと。兄達は取り合わない。証明しようがない遠い過去なので、いつも酒で有耶無耶にされる。

しかし残念なことに正月やお盆で私達弟家族を迎えてくれる実家が無くなった。

電気自動車が地球を救うかShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/08/04 6:42仙台 

昨日(3日)夕方、家内と一緒に日産プリンスへ行った。家内の車セレナの車検が済んだので、その車を受け取るためだ。

彼女の車は日産からリースで借りているもので、5年の契約期間が終わり、このリース期間を後2年延長した。

リース料は月3万5千円で、以前よりは2千円ほど安くなった。ここで車を買い取る選択肢もあったが、毎月リース料を支払う事によって、他人様の車を使わせてもらっているという緊張感がある。決して運転が上手とは言えない私や家内には、丁度良い。

さて車を受け取り、整備の終わったセレナで帰ろうとすると、目の前に電気自動車リーフの試乗車があった。営業の渡部さんが「試乗されませんか。まだこの車にお客様は誰も乗っていません」と言われて、私の持ち前の好奇心が刺激された。

車のドアを開くとまだシートにビニールカバーが付いたピカピカの新車だった。渡部さんの厚意に甘え、家内と共に試乗させてもらった。

この車にはいわゆるギアチェンジのためのシフトレバーがない。コンソールから突き出ている短いレバーは、ニュートラルと、前進、後進のみ操作できる。ブレーキを踏んでスタートボタンを押す。当然レシプロエンジンを始動した時のような振動がない。

一般道を走った印象は、何ら普通車と変わらない。加速も順調だったし、下り坂も何となくエンジンブレーキが利いている印象があった。いわゆる坂を下るエネルギーで発電する回生ブレーキが働いているのかもしれない。

再び日産プリンスに戻り、さてエンジンを止めようと思ったが止め方が分らない。パソコンならばシャットダウンだが、モニターにはそんな掲示がない。何のことは無い、再びスタートボタンを押すのだ。パソコンよりは簡単だった。

肝心の走行距離は200km程度だと言うことだ。公共の充電施設が整備されていない段階で、この車での長距離運転は不安だ。でも確実に電気自動車の時代が近付いていることが分った。

リーフは果たして地球を救う切り札になり得るだろうか!三

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学者でもあるまいし(Part4)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/31 19:04実家 

最近ネットを見ると、わが国の宰相、管さんへの風当たりが強い。

管さんへの批判をある政治記者がネットに掲載していた。(MSN、7月31日)

「片山氏の法令や手続きは順守すべきだとの問いかけが、官僚依存は好ましくないという話にすり替えられている。管首相はもう見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞こうとしない。かたくなに自分の殻に閉じこもっている」

もっともな説である。でも待てよ、この記事はどこか変だ。

遵守」が「順守」と書かれていた。

破綻を「はたん」と読まずに「はじょう」と読んだ学者が居る。

これではせっかくの名言が迷言と成ってしまう。

凡例を「はんれい」と読まずに「ぼんれい」と読んだお客様が居た。お客様に対して、若輩者の私が誤りを指摘することも叶わなかった。

もっとも小生も気付かずに誤記、誤謬を平気でやっている。目くそ、鼻くそを笑うの類の話なのだが、小生のような小物がネットに書くことと、有名な政治記者がネットに書くこととはその重みが違う。

これからもこの類の誤りで、私のような小物を楽しませて欲しいものだ。

閑話休題

原発に代わる再生可能エネルギーを用いた発電が巷を賑わしている。

再生可能エネルギーによる発電とは、自然界に存在するエネルギー源、例えば、お馴染みの水力をはじめとする太陽光や風力、潮力、地熱を利用した発電だ。しかし待てよ。これらのエネルギー源は地球のマントルの熱を利用した地熱発電や地球と月との引力から発生する潮の満ち引きの力を利用する潮力発電を除き、元を正せば、全て太陽からのエネルギーの供給を利用したものではないか。

母なる太陽から光のエネルギーと熱エネルギーをもらって地球は生かされている。太陽の輝きが無ければ地球は死の惑星となる。海水が太陽から来る熱で蒸発し、雨雲となり地上に雨を降らす。その雨がダムにたまり、水の落下エネルギーでタービンを廻して電気を作る。

だったら面倒くさいことをしないで、地球上にミニ太陽を造ればよいのではないかと学者は考えた。手塚治虫大先生の書いた鉄腕アトムでも小型の太陽が登場する場面がある。残念ながらこの小型太陽は悪い学者によって開発され、アトムによって葬り去られる。小型太陽の周りにはイカの足のようなクネクネした突起物が多数うごめいて、読者に不気味な存在と印象付けた。

これは核融合を用いた人工太陽をモチーフとしたもので、流石に手塚治虫大先生の着眼は素晴らしい。しかもこの人類の夢を悪用されるかもしれないと看破した点も政治的で面白い。この週末にテレビでは現代の透明人間を主人公にしたアメリカ映画を上映していた。アメリカ軍が秘密裏に透明人間になる薬を開発し、元特殊部隊の兵士に投与したが、その兵士が逆に軍にたてつくものだ。軍は敵との戦いの勝利に利用するために、透明人間になる薬を開発した。しかし悪い奴が居たもので、この透明人間になった戦士を政治的に利用し、議会や政権内部の自分達の主義主張の実現に都合の悪い人間の暗殺に使用した。つまり敵ではなく、本来味方となる自国の人間の暗殺に利用したのだ。

核分裂の技術は、平和利用だと思ったものが核兵器に利用された。核融合は水素爆弾(水爆)として暗黒の世界の一部を形成している。

もっとも核融合技術が救われるのは、核分裂で発生する放射能のような副作用が無いことだろう。人類の英知はこの核融合技術を平和利用だけに限定して実現して欲しいものだ。わが国の宰相、管さんは高らかに「核融合による発電へ日本人の英知を結集する」と言えば、どうなるだろうか。ケネディー大統領の月への人類の到達と同じような国家プロジェクトとして、若い世代に夢を与えたのではないか。

しかしわが国の宰相は「最小不幸社会の実現」と堂々とわが国の国会演説でのたまった。これは誰に向かって演説しているのか。耳を疑ったのは私だけではないと思う。成長期の子供たちに向かって、これからの未来を託する青少年に対して、何とも世紀末的な不安感を植えつけるだけではないか。裏返して言えば、自分の幸福を侵害する要素に対して他人への寛容さの喪失、自分の家族の、あるいは所属社会の幸福を守るために防御網を張るということにならないか。子供たちもバカではない。それぞれの個人が勝手に「最小不幸社会の実現」を目指したら、一体どのような世の中になるだろうか。

わが国の宰相は、既成の権威に楯突く事が自分の使命だと錯覚しているようだ。首相を辞めさせようとする既成の権威・権力に対して楯突く事が、自分の使命だと思っている。宰相とは既成の権威を壊すのではなく、その既成の権威に新しい世界、新しい道を導くことではないのか。世に言う指導者とはそういう人を指す。

もっと言えば、社会の「共存共栄」を図ること、あるいは維持することが宰相の使命ではないだろうか。日本には幸いにして異民族や異宗教あるいは階層間の抜き差しならぬ対立は見かけない。すでに地域間や世代間の成熟した共存共栄関係は実現している社会に思える。そんな中でも必ず利害関係は存在し、それを調整することが古来からの祭り事(祀り事)の原点だと言われている。対立する人々が耳を傾けるのは徳のある人物であって、徳が無ければリーダー失格である。決して既存の権威を壊すことが仕事と思ってはならない。三

学者でもあるまいし(Part3)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/27 7:26雑感 

この頃は投稿づいている。私を知る友人や諸先輩は一体どうしたのだと心配なさるかも知れませんが、私はいたって元気です。最近は老眼が大分酷くなりましたが、書きたいことがこの頃一杯あるものでペン(キーボード)の動きが調子づいています。この頃の投稿は少し論調が強すぎる点が自分でも気になりますが、震災につき(?)、お許し願います。また気がめっぽう小さいもので、菅さんを管さんと誤記して逃げ道を作っていると、私を良く知る友人は見逃さないでしょう。さらなる御容赦を!

さて前置きが長くなったが、先日、ネット版のS新報を見ていたら、市民による気仙沼市の復興の在り方を提言する「気仙沼市震災復興市民委員会」の第5回目の集まりの様子が報道されていた。(平成23年7月23日刊)なんと、米屋の健自さんもメンバーではないか。彼の提言はなるほどと思わせる至言である。ただし報道を読んだ限りでは、会議の全体的な論調が、マクロ的な提言とミクロ的な提言が混ざり過ぎて、管さんでは無いが単なる思い付きを各自が言い放っているだけという印象がぬぐえない。この委員会の事務局は多分行政(気仙沼市)が担当しているのだろう。今回で5回目となれば各提言の検証と工程表作成の議論に移っても良いのではないかと思う。それと財源の裏付けも大切だ。財源の裏付けのない提言は幾ら内容が素晴らしくても、絵に描いた餅だと言うことを忘れてはならない。

行政に二つの委員会が有ったとしよう。一つは学者が座長の委員会で、行政より高所から大局的な提言をまとめて欲しいと依頼されている。事務局には大手のシンクタンクの若手コンサルタントが入り、座長の大御所の意向に沿って議論をまとめ、短期間で報告書を作り上げる。片やもう一つの委員会は行政内部で作り、各局の実務者が経験と知恵を持ち寄って、実質的なプロジェクトの工程表を作り上げ、各工程での計画額もしっかりと計上している。こちらも短期間で報告書をまとめ上げる。市民から見ると学者が主催する委員会によって全体のプロジェクトが推進されているように見える。

それでは予算も獲得し復興計画が出来上がったとしよう。次にこの復興計画に基づく履行計画を策定しなければならない。履行計画の策定には幾つかの方式があるが、従来のように行政が履行計画を策定するのではなく、民間に一括して委託するターンキー方式の履行計画が、早期の復興の実現に効果的だ。

すなわちマスタープランは行政が、その履行プランは民間が請け負うわけだ。今回の大震災に伴う復興は莫大な期間と予算を要する。行政が道路の補修や拡張するレベルではない。復興対象のエリアを市区町村単位で複数に分け、公募方式で請け負う民間業者を選別する。各業者は請け負ったエリアの復興に競争して取り組む。すなわち気仙沼はA社が、南三陸町(志津川)はB社が請け負い、その完成度とスピードを競う。勝者は請負額の1割の報奨金を獲得できる。A社、B社は必死に成って質の高い復興を実現するはずだ。もちろん、一定割合の地元企業との共同請負や地元民の雇用を義務化する。

色々書いたが、この市民委員会が多くの有益な提言を発信し、未来への懸け橋に繋がることを祈る。三

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もったいない!(Part2)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/27 6:36雑感 

先日、我が家の現役のアナログテレビ受像機についてこのブログに投稿したが、そう言えば私の事務所のテレビ受像機もだいぶ古いはずだと思って、しげしげとテレビ受像機を見てみた。

あった!

東芝製の14インチアナログテレビ受像機は1988年製だった。今年は2011年だから、何と23年間も使っていた。こちらはビルの屋上に設置されたVHFアンテナから分配器を介し、7階の私の事務所にアナログ信号が送られてきている。昼休みにはこのテレビを通じてタモリの「笑っていいとも」を、家内と二人で楽しんでいる。23年前と言うと私はまだ独身だった。そう言えば一人でアパート住まいだった時、殺風景で何もない6畳の私の部屋を見て、気仙沼のお袋が哀れと思い私に買ってくれたものだった。海よりも深い母の愛。感謝!三

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もったいない、未だ退役せずShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/24 20:23自宅 

アナログ放送が本日(7月24日〕正午に終了した。誰も望みもしないのに国がアナログ放送を勝手に終了させた。彼らが薦める地上デジタル放送でアナログ放送に代わる新しい時代が本当に到来するのだろうか。今まで馴染んだアナログ放送を終結させる必然性があったのだろうか。それからマスコミが新聞に書いた「地デジ移行完了」の標題は正しくない。地デジ放送が始まってから従来のアナログ放送と並行して放送を流していたものを、多数のアナログ世帯を見捨てたまま、アナログ放送を一方的に打ち切っただけではないか。我々の商売でもクライアント・パソコンを積み残しながらサーバーを新しいサーバーへ移行することはあり得ない。ドコモがアナログ携帯電話機からデジタル携帯電話機へ移行するときだってこんな酷いやり方はしなかった。アナログ放送終了に対して政府が大々的なキャンペーンを張り、過大な費用を掛けるくらいだったら、その金で貧しい家庭に無料でデジタル受像機を配った方がよっぽど役に立った。

高度なシステムは必然的に脆弱性を孕む。銀行のオンラインシステムを見て欲しい。新しいシステムに更改するとき、必ずトラブルを発生する。首都圏のJR鉄道網もそうだ。どこか一箇所のトラブルが広域のトラブルに拡大する。まさに便利さと不便さは紙一重の脆弱な基盤の上で成り立っているではないか。現代人はこのような危ういシステム上で怯えながら生活している。

震災時の旧態たる固定電話の大活躍を見て欲しい。NTTは賢明な事に光通信の時代が来ても、黒電話(ダイヤル回線を用いたアナログ電話サービス)は存続させている。今回の東日本大震災のとき、私は3月18日に仙台から気仙沼へ高速バスで向かった。夕方に気仙沼の館山にある家内の実家に到着した時、黒電話は利用できた。今ではかなり重いと感じる受話器を持ち上げ耳に当てると、呼び出し音が聞こえ、ダイヤルに指を突っ込みぐるっと回す。しかし化粧坂の親戚の電話は光電話なので停電のため利用できなかった。震災地の情報交換の手段として、携帯電話よりも安定して通信回線を確保していたのは、黒電話ではなかったのか!通信は単純なほど災害に強い。ただしモールス信号の時代まで戻れとは言わない。何故ならばコードによる情報交換と音声による情報交換は本質的に異なるからだ。

一方技術革新の成果として、PCM通信やスペクトラム拡散型通信は地球と人工衛星間の音声通信を可能とならしめた画期的な通信方式だった。しかるにデジタル放送はアナログ放送に比べてどこに画期的な要素があったのだろうか。画面が美しいのは認める。しかし誰が女優の顔のほくろの数まで数えられるような高精細な画像を望んだのか?

あなた方は、周波数帯域がアナログに比べてデジタル方式のほうが狭いと言う。しかし私のようなチャネラーにとってデジタル方式の副作用が我慢なら無い。チャンネルの変更に対して画像の表示のライムラグが長すぎるのだ。またデジタル方式への変更によって空いた周波数帯域を他の電波を利用したサービスに開放するメリットをあなた方は強調する。しかし誰も携帯電話の数を今以上に増やし、または新サービスの提供のために、アナログ放送の廃止を望んだわけではない。狭い帯域しかないのであれば、あなた方の英知を結集して、その帯域内でご自由に携帯電話端末を増やしたり、新しいサービスを提供すればよいではないか。業界の利益のために従来のアナログ放送を犠牲にすべきではない。

白黒放送からカラーテレビ放送に移行した時、あなた方は従来の白黒テレビ受像機でもカラー放送を見られるようにしたではないか!それが為政者や技術者の良心と言うものだ。せめて独居老人の家庭に無料で地上デジタル放送の受信設備一式を贈呈しても良かったのではないか。一人暮らしの老人はテレビが何よりの娯楽だ。

そうは言っても私の惨めさは変わらない。今日の時点で大声で愚痴を言っても野良犬の遠吠えにもならないだろう。

ついでに言うならば、Lカセット、ベータマックス、4チャネルステレオ、VHDなど世間から脚光を浴びながらも、短期間で廃れたメディアを覚えているだろうか。家電量販店の店員さんの勧めで購入した従来のカセットテープよりも遥かに音質が素晴らしいLカセットのプレーヤーを購入した消費者は、詐欺に会ったような心地だったろう。

閑話休題。下の写真は我が家の現役の1996年に購入したソニー製の32インチのアナログテレビだ。受像機の横に96製と書かれたシールが貼られている。ケーブルテレビに加入しているので、CATV局のヘッドエンドが提供するデジアナ変換で、デジタル放送を我が家のアナログテレビで見ている。

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大きさは下の写真に示すとおりに相当に分厚い。しかしソニーのトリニトロン方式は世界に冠たる優秀な技術で、購入から15年経っても十分に我が家の居間のセンター(!)を確保している。宮城県におけるアナログ放送は来年の3月まで延長するそうだ。それまでこのテレビジョン受像機は機能を全うして欲しいものだ。そして新しく購入するだろう薄型テレビは、今までのアナログテレビと同じように15年以上使い続ける耐久性を持つと、淡い期待を抱いている。

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学者でもあるまいし(Part 2)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/23 7:22雑感 

前回は撃たれ強さを表す「抗たん性」が津波などの災害に強い施設や設備の在り方の指標になるのではと書いた。もちろん軍隊用語なので必ずしも震災の復興に当てはまるとは限らないが、平和な国ニッポンでも中東や南米の紛争国と同様に、災害対策の指標になる。

次に「日常性」が復興の次のキーワードになるのではないだろうか!つまり幾ら立派な施設を造っても人々の日常の活動に組み込まれない施設は、いざと言うときに役に立たないと言うことだ。50年代に世界が核戦争の危機に見舞われたときに、日本でも核シェルターが富める人々の間で密かに造られたと言う。しかし普段使わない地下室を核シェルターにしても、内部の設備の維持に莫大な費用が掛り、いつしか忘れられてしまった。お隣の国の韓国では地下鉄の構内が、北朝鮮からの攻撃のような有事に避難所として利用され、ソウル市民は定期的に避難訓練を行う。このような施設や仕組みが日常性を持った耐災害施設と考えられる。

次に災害時の情報の伝達の在り方を考えた時、今回の気仙沼の大震災では固定電話は全面不通、携帯電話・PHSもAUがかろうじて通話できた。ソフトバンクは震災後、暫く立っても全く役に立たなかった。社長の孫さんは私財を投じて復興に役立ちたいと行動しているが、ソフトバンクはドコモやAUに較べて明らかに震災時への設備の対応に怠っていた。テレビで派手な宣伝を流し、加入者の獲得に躍起だが、真のサービスの向上につながっていない。昔から孫さんの事業は、他人がある程度完成した設備やシステムを横から掠め獲るやり方だった。携帯電話事業も前身のボーダーフォンを買収したものだ。現在のソフトバンクの盛況もアメリカのアップル社のiPhoneのお陰と言っても言い過ぎではない。つまり孫さんは独自に興した事業で成功したわけでは無く、誰かが苦労して興した事業を引き取ったり(?)、特定の人気のある商品の販売権を獲得しながら、事業を巨大化してきた。今回の自然エネルギーに関する事業化も、震災を契機に、儲け仕事になると思い、他人の興した事業に乗っかる意図が透けて見える。しかし今では管首相と直でお話しできる立場になり、大したものだ。

閑話休題。各自治体には非常時のための防災無線システムがある。私が過去に携わった仕事に関東のある県の防災無線システムの在り方に関するコンサルティングの仕事があった。従来は専用の無線システムを利用した県庁と各市町村を結ぶネットワークを衛星系のネットワークへ移行するものだった。各市町村の屋上には衛星地球局(V-SAT)を置いて衛星経由で電話回線やFAX回線を確保する。しかし今回の大震災ではこの防災無線システムが役立ったときかない。つまり「日常性」に組み込まれたシステムでなかったことが、いざと言うときに役に立たなかったのではないかと思った。普段はNTTの回線でお互いの通信は足りる。だれも声が遅れて届く衛星通信を利用しない。

震災時の通信手段の主役はやはり携帯電話だろう。沿岸の被災地では電波出力の高い中継局を設置すべきだ。日本の携帯電話の通信方式はセル方式と言って、セルの中心にある中継局が互いに連携して携帯通信網を構成する。このセル方式に対抗するのがセンター方式(Convenience Radio Phone)である。センター方式は街の中心に一カ所だけ大出力の無線中継所を置く。日本でも試験的に岩手のある町でこの方式でサービスを提供したが、結局は大手のドコモやAUへ巻き取られしまった。AUが気仙沼で唯一被災時に通信を確保できたのは、この出力の高い中継局を持っていたからに違いない。自治体が独自に設置する防災無線システムの役割は終えたと言える。

今回の東日本大震災の地震の規模はマグニチュード9.0と言われている。しかも千年に一度の規模の地震だと言われている。しかし明治29年(1896年)の明治三陸大津波では今回の震災と同規模の死者・行方不明者二万人以上を出している。2011から1896を引けば、答は115である。すなわち約100年の間隔で今回と同程度の大震災が再び三陸地方を襲う可能性がある。

備えあれば憂いなし。「抗たん性」と「日常性」を兼ね備えた施設、設備の早期実現を望みたい。三

閑話休題Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/22 11:40仙台 

本ブログは季節の移り変わりや日々の出来事で心に留まったことを書くことが目的だった。しかしあの大震災以来、人の安否や復旧・復興情報が主流となった。震災後4カ月も過ぎたので、この辺で閑話休題と行きたいところだ。

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上の写真に示すスピーカはヤマハ製とEV製(Electro-Voice)だ。私の事務所に設置している。EVよりは少し小さいヤマハ(NS)は私が20代に購入した逸品だ。少なくても30年は使用した。一方EV製のStatus60は震災後、顧客のK弁護士より頂戴したものだ。こちらもかなり年季が入っておりウーファーのウレタン部分がボロボロに成っていたが、スコッチテープを使って何とか修理すると、素晴らしい音を奏でた。

この2台のスピーカーをケンウッドのミニコンポ用アンプが駆動する。自宅にはオンキョウの格上のプリメインアンプがあるが、このミニコンポのアンプでも十分に良い音を聴かせる。2台のスピーカーはラックスマンのスピーカーセレクター(AS-5Ⅲ)に繋がり、各スピーカーの切替も同時使用の選択も可能だ。セレクターはパソコンを置いている執務机の脇において、その日の気分でヤマハとEVを切り替えて音楽を聴く。主なメディアはCDで、音質は劣るもののMP3やWMA形式で圧縮された音も長時間BGM的に聴くときには重宝する。聴く音楽のジャンヌはクラシックから、ジャズ、ポップス、演歌まで幅広い。

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今まではヤマハだけで聴いていたのでスピーカーによる音質の違いが分らなかった。しかしヤマハとEVを比較しながら聴くと、その奏でる音の違いに驚かされる。ヤマハは少しこもった音を創っていると言う印象を与えるが、EVはあくまでも原音に忠実にどこまでも澄み切った秋空を感じさせる。しかしヤマハが劣っていると言うわけではない。EVはある程度パワーをあげると背景の音までくっきりと浮かび上がってくる。一方ヤマハはパワーをあげなくても柔らかな音で聴きやすい。強いて言えば大音量はEVで、小音量ではヤマハと言うことだ。

先日、仙台で沖仁のフラメンコギターを家内と娘の三人で聴いた。弦を叩きつける様な右手の動き、左手は氷上を滑るように滑らかに躍動する。自分でも少しだけギターを弾くが、プロのギタリストの演奏を聴くのはこれが初めてだった。このギター音楽が余りにも素晴らしかったので、この原稿を書きながらBGMで荘村清志のクラシックギターを聴いている。

亡くなった兄は本家の自室で古いLPレコードや懐かしいソノシートをレコードプレイヤーに掛けて聴いていた。あの年代物のステレオ装置も今は何処かの瓦礫の中に埋もれてしまった。でも兄の嬉しそうにレコードを聴いていた姿が目に浮かぶ。合掌

学者でもあるまいしShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/22 9:23雑感 

学者でもあるまいし、復興に関して高説をのたまうつもりは無い。もっとも昨今の学者は役に立たない医者や政治家と同様に、この大震災以来すっかりと鍍金が剥がれたように評判を落とした。非常時だからこそ、学者が普段の研究の成果を発揮すべきではないか!ただし災害が発生してからその原因を幾ら解説しても、被災者の慰めにもならない。最近では放射能汚染された稲藁を肉牛の飼料として与えた事件が酷い。その汚染された牛肉が子供達の口に入った可能性も高く、この責任は行政よりも公平に広範に放射能汚染の被害を予測できる学者の怠慢ではないか。何のために高い報酬をもらって大学で研究していたのか。

アメリカのパニック映画の様に、地球が自然が都市が危うくなった時、その危機を予測する学者が現れ、行政や地元民を説得し大規模な災害を未然に防ぐ、そんな学者の姿を頭に描いていた私には日本の学者は失望の極まりだった。さらに災害の発生を知っていながら企業や行政と結束し、彼らの利益を守るために公表を遅らせた学者が居たとすれば、断罪ものだ。

何となく週刊誌的な論調になって来たが、管さんみたいな言い訳の権現が日本の政治のトップに立っているので、真の学者や現場を知る行政のテクノクラートが力を発揮できず、極めて不幸な状態に思える。彼が国会で追及されると「それも含めて広範囲に検討したい」とのたまう。その場その場の言い訳に聞こえてしょうがない。信なくば立たず、正にその通りだ。彼はどこかの国際会議で「足るを知る」の意味を紹介したそうだ。足るを知らないのはご本人ではないか。このようなタイプの政治家が日本に居たとは、呆れて言葉にならない。常識を超えたキャラクタが日本の政治のトップに居座り続ける。ローマ帝国の暴君でもあるまいし、いい加減に止めて欲しい。止めさせるのは簡単だ。誰もついて行かなければよいのだ。誰もついて行かなければ、自分が信のない人間だと初めて分かるのではないか。バカな政治家が利口な振りしてトップに居る事こそ、日本にとって不利益なことは無い。

個人的に好きなのは自民党の元首相である亡くなった宮澤さんだ。彼は理知的で身のある政治家とし尊敬している。宮澤さんが生きていたらもっと違った展開に成っていたと思う。子分を作って徒党を組みことを好まず、どこか孤高の逸材として光り輝いていた。

さて今回の投稿のテーマは「気仙沼の復興について」だ。本題に移ろうと思う。

今回の東日本大震災の大津波と過去の明治三陸大津波や昭和三陸大津波では、その復興において一体何が違うのだろうか。また外国で発生する大地震、例えばイランでも過去に地震で未曾有の被害を受けた地域がある。歴史的に見てイランの民族は大災害のあった都市を捨てて別の都市を建設する。異民族間の殺戮の歴史や遊牧民の知恵が都市を捨てる発想に繋がるのかもしれない。国土が狭く人口も圧倒的に多い日本ではとてもかなわぬ選択肢だ。

昭和35年5月24日のチリ地震津波の時、私は小学2年生だった。魚屋だった我が家も2階付近まで海水が上がり、当日は学校が休みになった。しかし父母や祖母たちは翌日から海水を浴びた家具や食器、畳を表の道路で水で洗い、天日に干していた。同様な風景が魚町や南町の各家で見られた。行政やボランティアが助けてくれたという記憶がない。当時の気仙沼市のインフラはせいぜい上水道と電気、電話に限られていた。食料もふんだんにあって子供ながらに飢えた思いをした記憶がない。

よく比較される明治と昭和の三陸大津波の記録は次のとおりである。

明治29年6月15日には三陸海岸を大津波が襲い、気仙沼の港には高さが20mを超す大津波が来襲し、多くの家屋と人命を奪った。死者と行方不明者の合計は被災地全体で2万1959人と記録されている。この人命を失う規模はほぼ今回の東日本大震災の規模と同じである。明治の先人は一体どのように地域の復興を成し遂げたのだろうか。多分当時は行政よりも地区の旦那衆が、自宅の蔵に会った備蓄米を地区民に開放して、餓死などの二次災害を防いだに違いない。つまり自力更生の力がまだ備わっていた社会だったのではないか。

また昭和8年3月3日の昭和三陸大津波でも気仙沼の港を高さ30m近い大津波が襲ったが、この時も明治の大津波の例に倣い、地区の旦那衆はその財力を使い切るほど街の復興に対して尽力を尽くしたのではないか。お陰で周辺の漁村に比べて気仙沼の漁民はいち早く漁を再開できた。この地震と津波による被害は、被災地全体で死者1522名、行方不明者1542名に及んだ。

復興の基本はインフラの復旧であることは言うまでも無い。効率一辺倒の集中型の設備は大災害に弱い。軍隊では「抗たん性」と言う言葉がある。これは撃たれ強さを表す言葉である。最近では「ストレステスト」と言う言葉が原発の耐震性の測定に使われるようになった。抗たん性は敵の爆撃機や戦闘機に地上の軍の設備が攻撃されても、如何にその設備の機能を維持し続けるかを示す。

仙台市では最初に都市ガスと電気、固定電話のサービスが止まり、水道の停止は比較的遅かった。つまり水道は抗たん性に強いインフラだったことになる。昔の固定電話は電話局からの自己給電だったので、停電になっても電話だけは通じていた。しかし現在Bフレッツに加入し電気無しでは固定電話の利用もかなわなくなった。抗たん性が低下した顕著な例である。

一方、復旧の速さから順をつけると電気の復旧が最も早く、都市ガスや水道の復旧が最も遅れた。都市ガスや水道のパイプは地中に埋められている。一方各家庭への電気配線や電話配線は電柱から引かれている。電柱が地震や津波で倒れることがあっても、建て直すことは比較的容易である。欧米や中東の電気、電話の配線は地下配線が主流だ。だから復旧にも時間がかかる。

気仙沼の復興にはこの「抗たん性」の概念の導入も必要だと思う。三

震災後4ヶ月が過ぎてShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/18 10:36気仙沼 

父方の従兄(故千葉清志)が震災後ずっと行方不明だった。私は毎日地元の新聞の河北新報を見て、従兄の発見の記事を待っていたが、7月に入り4カ月が過ぎると、いよいよ本人の推定死亡を認めざるを得なくなった。

遺族も一定の心のケジメをつけるため、遺体が発見されないまま、すでに遺体が発見されていた従兄の配偶者(故千葉ふさ子)、そして孫(故千葉泰河)と共に、気仙沼で葬儀を挙げることになった。本通夜は7月16日(土)、葬儀は7月17日(日)、予定通りに行われた。残された遺族は望ちゃん夫婦と長女の柚奈ちゃんだった。震災後、小学生の柚奈ちゃんは一人だけで居ることができなくなった。彼女の心の中で、自分の弟が死んだ事実にどんなに辛い思いをしたことか、想像に難くない。

あの日、三人は同じ車に乗り、避難途中で車ごと津波に巻き込まれたものと思われる。清志夫婦は地震の直後すぐに保育所に居る孫の泰河君を迎えに出かけた。保育所の保母さんの証言では確かに泰河君を二人に引き渡したと言う。しかしその後の足取りが誰にも分からない。

昨日(17日)午前の葬儀が終了し、午後からの会席の場で法玄寺の駒林泰玄上人より講話が有った。故人の霊が成仏し、浄土にて残った現世の遺族を暖かく見守っている。だからいつまでも故人の死にとらわれないで、故人亡き後の新しい生活に進むことが、何よりの供養になるという。

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私はこの葬儀に参加するために、7月16日(土)、車で仙台から気仙沼へ向かった。途中、一関市内で祖母(トミ)の実家を探した。兄夫婦の死を知らせるためだ。私が中学校時代に父(永一)に連れられて何度が訪問したことがあったが、それこそ数十年ぶりの再訪問なので、山目地区のどの辺に家があったが記憶が定かでない。幸いに兄夫婦の結婚式のときの参列者の記録が、津波で流されて後で発見された金庫の中に入っていたので、そこに記された住所を頼りにその家を訪ねた。幸いに父の従兄の奥様(勝子さん)が健在で、兄夫婦の死をお知らせすることが出来た。

また17日の葬儀の前に次兄(勤)をJR一関駅へ車で迎えに行った時、少し時間が有ったので磐井町の祖父方の親戚宅を訪問できた。見覚えのある千賀子さんに玄関で私を迎えていただき、やはり兄夫婦の死をお知らせできた。

両家とも気仙沼の被災状況を心配し、気仙沼の私の実家へ電話で何度も連絡を取ろうとしたが、もちろん実家は家ごと津波に流されて、連絡を取りようが無かった。両家には来年3月11日に本葬を行う段取りをお知らせし、別れた。

気仙沼の復興は遅々として進まない。しかし約1ヶ月ぶりの気仙沼の被災地は大分綺麗になっていた。

1ヶ月前のブログで被災地の道路に沿って電柱が建ち始めたと紹介したが、今回は電力線と電話線のコンクリート共用柱が以前よりも数多く建っていた。中には電柱の上に電力線の架設工事が始まっているところもあった。電気が通れば個人個人の復興の歩みが加速される。個々の復興は個人個人が主体的に進め、行政はインフラ整備に専念し、遅れている瓦礫処理にもっとまい進すべきだ。

私の評価では、残念ながら震災後4ヶ月もたってこの程度かと言った程度の進捗だ。被災地を訪れたのは土曜日だったことも在り、瓦礫処理のための工事車両や作業員の姿は全く見られなかった。しかし所々、各地所の持ち主が自分の地所の瓦礫の中から貴重品らしきものを探していた。個人の所有地の瓦礫処理については、一括して行政に撤去を頼むことも、個人で撤去することも可能なようだ。

次の写真には一景島公園の立ち木が写っている。この辺は元々が海の中で、その名が示す通り、一昔前は一景島が島または岩礁として海中から顔を出していた。先人は湾を埋め立てて、この気仙沼に水産物の一大加工基地を造った。今回の震災の復興に際し、先人の例に倣い、元々埋立地だったこの地の嵩上げを行政が積極的に推進したらと思う。嵩上げの高さはそれこそ10M規模にすればよい。全体を嵩上げし、今回のような大津波が襲ってきたら、一時的に避難できる高層の避難所を何箇所か造って今回の様な大津波に備える。町全体を山側に移転させるなんてなんとも非現実的で、時間も相当かかりその内地元民は皆干上がってしまう。地権者の合意を取りやすい現状での嵩上げ案がもっとも現実的だ。

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壊れた魚市場から内湾を写した。時刻は午後3時くらいだったと思うが、この時は満潮でなく干潮だったそうだ。満潮になると川口町周辺は海水が溢れて、とても作業が出来ないと言う。そして意外なことに6月よりも異臭が少なかった。瓦礫処理が進み異臭の元になる水産加工物の撤去が進んだのだと思うが、その代わりに小ハエが街中を満たしていた。法玄寺での葬儀の最中も、汗だくの参列者の周りを多くの小ハエが飛び回っていた。

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写真は実家の浜見旅館があった周辺の風景だ。たまり水の下に薄っすらとJR気仙沼線の線路の跡が見える。だから撮影した場所は踏み切りの上と言うことになる。左端に見える立ち木が旅館があったまん前だ。はじめてこの被災地の現状を目の当たりにした叔父夫婦(政時、清子)はどう感じだろうか。本家の復興が容易でないと感じていただければと願った。三

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フリーメイスンとお寺Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/14 9:32気仙沼 

今朝(7月14日)の三陸新報(ネット版)の第2面を開くと、被災した歌津の西光寺がフリーメイスンの資金提供によって、13日に仮本堂が完成したと小さく報じられていた。この支援の橋渡し役が津谷の峰仙寺の住職である千葉省三氏である。

峰仙寺については、元本吉町長である千葉仁徳(やすのり)氏が出版された「ああ満州!引き揚げまでの日々」を読んで知っていた。峰仙寺は仁徳氏の御母堂の実家である。本誌には尊父を失くされた後の仁徳氏の波乱万丈の歩みが詳しく述べられていて、特に氏が小学校6年生の年に、津谷から伯父に連れられて、他の兄弟を残し、一人だけ満州に渡る下りが泣かせる。

実は私の母(千草)も満州からの引き揚げ者なので、仁徳氏の御協力で母の満州での記憶を本誌に載せてもらっている。拙い母の記憶を文書化したのは、氏の辛抱と根気の賜物であり、感謝に堪えない。月日が経てば当然埋もれてしまうだろう母の満州時代の思い出が本として残ったことに子供の一人として感謝したい。本書に興味のある方はhttp://santoku.hk3.jp/default.aspxにアクセルされたい。本書を手に入れる方法が示されている。

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シェークスピアによれば芝居には喜劇と悲劇の2種類があって、喜劇はハッピーエンド、悲劇は別れで終末を迎えると言う。もしも別れが死を意味するのであれば、誰にでもいつかは死が訪れるのだから、喜劇は悲劇に向かう一場面を切り取ったものにすぎない。しかし仏教には輪廻転生の教えがある。人の人生が過去から未来へと続く、喜劇と悲劇の繰り返しと思えば、災害に遭い不幸の真っ最中の人々にわずかでも救いをもたらすのだろう。このような仏教の祈りの場であるお寺の復興に手を貸すフリーメイスンとは、いかなる意図で援助の手を伸ばしてくれたのだろうか。

西洋は罪と罰の文化である。死んで裁かれるとは、救いの無い脅迫的な観念と思われる。誰か、死んでからの本当の世界を見たことがあるのか。証明できないことをあたかも 真理のように人に教える。

フリーメイスン(Freemason)は西欧のミステリーにしばしば登場する。イギリスを起源とし、陰謀の陰にはフリーメイスンが関わっていると言われる秘密結社の元祖のような存在である。ネットによれば、今回津谷に現れたジャパンフリーメイスンズの代表であるフィリップ・A・アンブローズ氏はフリーメイスン内部でグランドマスター(Grand Master)の称号を持たれているそうだ。マスターは職人の親方を意味するから、グランドマスターはもっと権力を持った大親方を意味するのかもしれない。

日本人にすればフリーメイスンは馴染みのない団体に思われるが、フリーメイスンが公開団体のロータリークラブを創ったと言われているので、裏の意図を考えずに素直に感謝しよう。三

秋田の加賀喜商店についてShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/13 8:00気仙沼 

昨晩(7月12日)、秋田の佐々木さんから拙宅にお電話を頂戴した。震災で亡くなった兄は気仙沼高校を卒業すると佐々木耳鼻科の奥様のご実家が秋田の酒蔵だった関係で、その奥様のご紹介で秋田市の鮮魚商の老舗「加賀喜」に奉公することになった。写真で示す加賀喜商店は安政年間の創業で、私も学生時代にすぐ上の兄と真冬にこのお店を訪ねたことがある。豪雪の中秋田市内に到着すると、遅い時間ですでに店仕舞いしていたが、たまたま店に居た若い女性が真っ白な顔の美人で、これが噂に聞く秋田美人かと、胸ドキドキで挨拶した覚えがある。

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兄の遺品を整理する中に手帳があって、秋田の住所の貝田さんのお名前と電話番号が記載されていた。たまたま女性だったので兄とどういう関係かと訝ったが、思いきって電話するとこの加賀喜さんの同僚だったと聞かされた。この貝田さんから佐々木さんの事を知った。

兄と同僚だったお二人は兄夫婦の死を知り、震災後の3月末に秋田から車で気仙沼まで来られたそうだ。苦労して何度も地元の人に聞いて、鹿折の公営墓地に埋葬されていた兄夫婦の墓標を探り当て、墓標に焼香をしていただいたそうだ。遺族の一人として、このように兄夫婦の事を思ってくださる方が居ることを感謝し、言葉が詰まり御礼の言葉も無かった。

平成23年度の相続税についてShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/13 7:32 

昨夜、甥の進介からメールが来て月曜日に都内の税務署に行って、相続税に関する説明を受けたそうだ。それによると今年度から相続税の非課税枠(基礎控除額)が大幅に引き下げられていた。

私の本ブログに書いた相続税の基礎控除額は、従来

「5,000万円+1,000万円×法定相続人の数」

だった。これが、4割圧縮されて、

「3,000万円+600万円×法定相続人の数」

になる。例えば、法定相続人が2人の場合には、7,000万円から4,200万円に減額される。相続税は、遺産が相続税の基礎控除額を超える場合に、申告が必要になる。

しかしネットで調べるとこの法案は平成23年1月25日に国会に提出されたものの、年度末の3月31日までに成立しなかった。続いて6月10日に上記税制改正項目を2つに分け、一つは6月22日に成立し、もうひとつは今後審議していくために存置することになったようです。なお相続税については6月22日に成立した法案には入っていない。今後は消費税などの改正の検討とあわせて、平成24年度以降の税制改正として検討されていく方向のようです。

もしもこの情報が正しいとすれば、平成23年度の相続税の申告は従来通りの計算方法によるものと思います。そうなれば死亡保険金に関わる控除についても、法定相続人一人当たり500万円の控除が存続します。

何となく今の政治の混乱が税制にもそのまま響いているように思えるくだりだった。大震災を受けて政治家は被災者を苦しめる様な税制改革は慎むべきだろう。三

享年と還暦Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/10 8:08気仙沼 

恥ずかしながらどうも享年の数え方を間違っていたようだ。兄夫婦が亡くなり、気仙沼の三陸新報に甥達の名前で火葬が終了した旨の広告を掲載した。この広告に兄夫婦のそれぞれの享年を表示したのだが、一歳だけ数え間違いをしていた。 享年は数え年を採用するので(注、近頃は満年齢で享年を数える場合もあるそうだが、仏事なので数え年としたい)、生まれた年を1歳とカウントする。従って通常の満年齢に一歳追加すれば数え年になると思っていた。しかしネットで調べると年齢が一歳追加されるのは誕生日ではなく、正月を迎える1月1日時点だった。そう言えば、私が子供時代に正月のことを「お年取り」と呼んでいた。お年取りの晩は父や二人の祖母からお年玉を渡されるとともに、ナメタの煮つけなどのご馳走を食べた。このお年取りの晩は正月の1月1日ではなく、大晦日の3月31日の晩を指していた。もっとも江戸時代の考え方では晩から一日が始まるので12月31日の晩は新しい年の始まりと見なされ、盛大にお祝いしたことも頷ける。

この考え方であれば、正月には誰でも一歳年を取ることになる。今考えればなんとも素晴らしい習慣ではなかったか!以下、正しい享年を掲載する。なお、享年○○歳と”歳”と付けるのは間違いで、「享年○○」が正しい呼び方のようだ。

昭和23年生まれの兄は享年64

昭和31年生まれの義理の姉は享年56

となる。二人とも誕生日の前の3月11日に亡くなったので、二歳も満年齢に比べて年齢が追加される。いきなり年寄りになったとあの世からお叱りを受けそうだが、子育てを終われば年の功が尊重される。勘弁してくれ!

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私は昭和28年生まれなので数え59と成る。還暦は1周した後の最初の年だから、私が数え61となる再来年が私の還暦となる。まずは無事人生のグラウンドを一周したいものだ。

遺産相続についてShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/07 9:08気仙沼 

大震災で亡くなった兄夫婦の火葬も終わり、私が甥達を手助けできる事案として甥達の遺産相続が残っている。遺産相続の事務手続きは私にとって初めての経験だ。確かに父(永一)が平成2年に亡くなった時に、私も相続人の一人になっていたが、兄(規夫)が事務手続きを進めたので、私自身が面倒な手続きに関する知識を持っているわけではない。

まずは小松弁護士に相談した。先生からは遺産の分割協議で揉め事があるのであれば弁護士の出番だが、通常は司法書士にお願いする事案だと教えられ、気仙沼の小野寺哲五朗司法書士を紹介された。そう言えば震災で流された浜見旅館の金庫の中に小野寺先生が手続きを代行された不動産の登記済権利証が入っていた。登記済権利証は複数金庫に入っていたが、何れも海水を含んだ泥だらけで拙宅のサンルームで2週間ほどかけて乾かした。

小野寺先生にご相談する前に、相続する遺産を確定する必要がある。兄夫婦の遺産にはどのようなものがあるか、一番知っている兄夫婦が突然居なくなったので、残された書類から類推するしかなかった。不動産については金庫に入っていた登記済権利証が役立った。父(永一)が死んだ時点で一度不動産の相続が行われている。この時の書類を見ると、父の配偶者である母(千草)が浜見旅館の建物部分を相続している。土地は元々母のものだったことが、他の登記済権利証から分った。父は若い時から自分の短命を知っていて母の名義で土地を買わせたのかもしれない。それから加工工場のカネフトがあった土地と本宅のあった弁天町の土地は、死んだ兄が相続している。それ以外に兄が購入した東京都荒川区のマンションの一室が不動産として残っている。また一関の土地に関する権利証もあったが、私の記憶ではそこは一関市役所に無償で譲渡したはずだ。なにやら土地区画整理の事業の中で発見された土地で、本家の先祖代々の土地が一関に残っていたようだが、兄はあっさりと放棄した。私も固定資産税を取られるくらいなら放棄するほうが得だと思った。

結局、兄は甥達二人に気仙沼の不動産2箇所と荒川区の不動産1箇所を遺したことになる。しかし気仙沼の建物はすべて津波で流されている。また土地の使用制限地域に入っているので、事実上は荒川区の不動産だけが価値のある物件だ。遺産分割協議書を甥二人で相談して作ってもらわなければならない。甥の長男は何れ気仙沼へ戻ることにしているので、不動産の相続は長男が行ない、次男はお金で補償する案を私は甥達に提唱した。長男は本家を背負う運命があるし、次男は自由に羽ばたくための現金が相応しいのではと思った。何れにしても二人が決めることだ。

死亡に伴う相続税の申告は死亡した翌日または死亡を知った翌日から10カ月以内であることが決められている。また相続する財産の金額から基礎控除として(5000万円+1000万円x相続人数)の金額を削除できる。したがって相続人が甥達2名なので7000万円までの相続は無税となる。なお今回はネットで調べて初めて知ったが、相続などにより取得した財産(土地、建物、現預金、有価証券など)のほかに、見なし財産と呼ばれる死亡に起因して得られる財産(死亡生命保険金、死亡退職金など)も計算の対象となる。

申告の期限は来年の1月になるので、丁度確定申告の時期と重なる。不動産の価格については路線価額(土地)や固定資産税評価額(建物)が使用される。さてこの大震災の後、一体気仙沼の土地は幾らの価値があるのだろうか。三

労働者災害補償保険(労災保険)の申請Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/07/01 20:35気仙沼 

兄が経営していた水産加工工場で、3月11日に亡くなれた従業員が一名居られる。その人の名前を仮にMさんとしよう。Mさんが兄の工場に勤められた経緯が良く分からない。何やら兄が昔、気仙沼高校の柔道部のコーチをしていた関係で、そのOBからの紹介があったのかも知れない。とにかく縁あって兄の工場でお勤めいただいた。あの日、運命の3月11日もいつもの通りに工場でMさんは働いていた。午後2時45分にマグニチュード9.0の大地震が気仙沼のみならず、東北、関東一帯を襲った。そして間も無く誰もがその規模を事前に予想できない大津波が気仙沼に襲来した。地震後、いち早く水産加工工場の従業員は自分の車で、あるいは誰かに同乗させて貰って、工場のあった川口町から逃げている。兄嫁も愛車の鈴木アルトで一足早く逃れた。兄も全員が退避後、最後に車で工場を離れたと言われている。

しかしMさんは自転車で工場を離れた。助かった人の中には、遠くに逃げずに、近くの鉄筋コンクリートの大きなビルに逃げ込んで一命を取り留めている人も居る。Mさんは自転車で逃げた。当時誰もが南郷の大橋を目指して車の大渋滞を興して、多くの人が無常にも後を追いかけてきた大津波の犠牲になった。ある意味、自動車で逃げる方が車を使うよりも生きる確率が高かったかもしれない。それでもMさんは亡くなった。ご遺体は4月下旬に発見されている。

私達は兄夫婦の死と同様にMさんの死にとても辛い思いをしていた。このMさんのご遺族の消息が、くしくも兄夫婦の火葬の日に、火葬のお手伝いを頂いた舟屋の社長である吉田さんよりもたらされた。吉田さんも柔道部のOBである。吉田さんはMさんが兄の工場に勤めていたことも、行方不明だったご遺体が発見され、ご遺族が葬式を挙げたことも知っていた。この吉田さんのお陰で、晴れてMさんのお姉さんに連絡が取れて、私個人として弔意をお伝えすることが出来た。

そして宮城労働局からの指導で、労務保険の申請がMさんに対して可能なことをお知らせした。ご遺族に対して少しでも弔慰金が支払われることは幸いなことである。元々兄の事業所が労働保険の対象事務所であるかは分からなかった。偶然に私の家に労働保険の新年度の更新用の書類が届いたお陰で、兄の事務所も労働保険に加入していたことが分かった。しかしMさんの死が労務保険の適用となるのか分からず、親しくさせて頂いている郷里の先輩である小松弁護士に相談した。先生いわく、まずは申請してみてだめであれば相談しなさいと言うことだった。半信半疑で仙台の榴ヶ岡にある第4合同庁舎の宮城労働局へ相談に行った。労災保険の適用は雇用保険の適用と異なり、正規従業員のみならず、パートタイマーやアルバイトの労災にも適用可能と教えていただいた。今回の大震災では津波から逃げる途中で命を亡くされたので、通勤災害に当たると指導された。なお労務保険の支払いでは事故があった月から過去3ヶ月間の平均給与が支払いのベースになると教えていただいた。しかし給与に関する資料は津波で全て流され、給与の支払い業務を引き受けていた兄は故人となった。そのような場合でも事業主さんに問い合わせて過去の支払い給与を思い出していただくこと、それも可能でない場合にはその地区の同年齢の平均給与を適用する場合もある、と教えていただいた。幸いなことに事業主であるSさんのご協力で過去の支払い給与を再現できそうだ。

労災保険の申請書の作成を私が手がけている。分からないところはネットを利用したり、直接、宮城労働局へ電話で訊ねている。多分通常であれば司法書士や行政書士の先生に依頼した方が早いのかもしれないが、今回の大震災では余りにも基本と成るデータが不足している。コツコツ私が調べ上げて申請書を作成するしかないのだろう。

金庫が見つかった〔気仙沼)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/06/24 19:22気仙沼 

米屋の聖子さんから電話が入り、何やら気仙沼警察署で浜見旅館の金庫を発見したので中身の書類を取りに来るようにと連絡が入ったそうだ。それを受け、私から直接警察署に電話し、警察では平日のみ引き取り事務に対応しているとのことで、やむを得ず平日の今日(6月24日)に家内と二人で仙台から気仙沼へ向かった。

幸いなことに罹災証明書を持っていれば東北自動車道の高速料金が無料になるというので、仙台で普通はETCレーンを使うのに、今日は一般のレーンから入り通行券を受け取り高速道に入り、約1時間掛けて走り一関インターで降りた。一関の料金所で恐る恐る私の運転免許証と一緒に罹災証明書と通行券を提示すると、係員のおじさんはすぐに内容をチェックしてどうぞお通りくださいとジェスチャーで示した。私と家内は思わず「有難うございます」とお礼を言ってゲートを抜けた。仙台から一関までの高速料金は通常は2,200円なので往復分の4,400円が無料になったことになる。これで懐の心配をしなくても気仙沼へ気楽にいける。やったー

南郷にある気仙沼警察署も津波の被災を受けていて庁舎は閉鎖されていたが、裏の駐車場では金庫等の貴重品の引渡しコーナーを設けていた。受付には三人の警察官が居た。腕章を見ると島根から来た警察官のようだ。全員が若くて言葉が丁寧で、感じが良い。被災地の役に立ってやろういう直向さを感じる。暫くすると一人の警察官が大きなビニール袋に入った金庫の中身を持ってきた。私もその袋を手にすると海水を含んでいるのでかなりの重さだった。

書類は主に保険証書だった。生命保険や火災保険が主だったものだが、ほとんどが日付の古い期限切れの損害保険の証書だった。これらの証書は海水を含んでいるので一つ一つ開いて内容を確認することは困難だった。ただし底のほうに大きながま口が千両役者のように残っていた。私も家内も大金が入っていることを期待したが、中身は数本の印鑑だけだった。警察官も事前にチェックしているので、お金は発見できなかったと言っていたが、事実その通りだった。あとは浜見旅館の防災や保健所関係の書類だった。多分、母の千草が管理していたのだろうが、金庫を整理棚のように使って、肝心の土地や建物の権利書が入っていない。取り敢えず貴重品は金庫に入れることにしていたと思うが、日付の古い有効期限の過ぎた証書は後世のために捨てておいて欲しいものだ。
(注、お袋の名誉回復のために書かなければならなくなった。後日、じっくりと金庫にあった書類を改めたところ、権利書が続々と出てきた。泥だらけで海水を大量に含んでいたが、タオルでふき取ると確かに不動産の登記簿等の権利書だった。これで兄の遺産がはっきりしたので甥たちへの相続手続きもやり易くなった)

いくつかの課題をやり終え、その日のうちに気仙沼から仙台へ戻ったが、途中昼食のために千厩へ立ち寄った。旧町内の洋食の朝日屋さんで私はとんかつ定食、家内はカツカレーチャーハンを食べた。先週私はこの朝日屋さんでカツカレーを食べて、カツの香ばしい匂いにいたく感激したので、家内にも食べさせたかったのだ。彼女への今日の日当をカツで支払ったつもりだったが、味への評判は上々だった。三

皆さんに感謝(改葬御礼)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/06/17 11:16気仙沼 

土葬された兄(規夫)と義理の姉(裕子)を火葬するために、6月15日、鹿折公営墓地で、重機を使った掘り起こしに甥二人(康介、進介)と共に立ち会った。まず午前9時30分より兄が、午前11時より姉の掘り起こし作業が始まった。それぞれ1時間超の時間を要した。

掘り出された棺桶は、広い公営墓地の奥に張られた仮設のテントに運び込まれた。テントには外から作業が見えない様に青い天幕が張られ、私達は裏手から、マスクを掛け手袋をつけた市職員のMさんの作業を見守った。棺の蓋をあけるとMさんは始めに遺体を毛布で覆った。それから満遍なくスプレーで臭い消しの液体を毛布の下の遺体に吹きかけた。また先の土葬で我々が棺に一緒に入れた花をビニール袋に入れた。その作業が済むと新しい棺に遺体を移し替えるために、Mさん以外に5名の土木作業員および葬祭業者の舟屋さんの2名が手伝った。私は甥二人の肩を叩き、テントから離れる様に促した。二人に辛い姿を見せるわけにはいかない。

新しい棺に移された遺体に白い仏衣が掛けられた段階で、Mさんがテントから出てきて我々に車への搬送を手伝う様に告げた。新しい綺麗な棺には毛布で包まれ白い仏衣を掛けられた遺体があった。

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二人の火葬は法玄寺の駒林泰玄(たいげん)上人の遠く太平洋に届くような素晴らしい読経の中、50名以上の参列者にご焼香を頂き、気仙沼斎場でしめやかに行われた。それぞれの遺体は約2時間掛けて荼毘に付された。控室で待つ間、泰玄さんに流された位牌の復活について色々とご指導を頂いた。一つ一つの位牌を元の状態へ戻すよりも過去帳形式のまとめて記載する位牌を仏壇に飾る方法をご教授いただいた。なるほど、これならば狭い部屋の小さな仏壇でも何とか間に合う。骨拾いは始めに兄が、次に姉が続けて行なわれ、参列者にもご参加いただいた。

骨壷に入れた二人の骨は、本葬が行なわれる来年3月11日まで法玄寺で預っていただく。兄(規夫)と義理の姉(裕子)の骨箱は本堂の横に仲良く並んでいる。もしもご焼香に法玄寺に来られる場合には、法玄寺に事前にお電話( 0226-22-2081)をお願いします。他の法要と重なる場合があるそうなので、よろしくお願いいたします。

本葬は一周忌に合わせて実施することにしました。一年もたてば気仙沼も落ち着き、遠くから参列される縁者にも泊る宿が確保できると思う。今は復興関係の業者さんでどこのホテルも旅館も満杯状態だ。従って二人の初盆も行なわない。一年間は霊の状態でこの世を彷徨うことになる。しかし二人はきっと赦してくれると思う。本葬が終われば、あの世に仏となって旅立ってほしい。皆で本葬の時に盛大にお見送りします。合掌、三

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電柱が立っていた(気仙沼)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/06/16 11:17気仙沼 

16日の早朝に内の脇地区へ車で向かった。何と電柱が道路沿いに立っていた。遠くに大島の亀山が見える。まずは大川沿いの幹線道路の復旧を優先させたのだろう。電気が使えるようになれば、個々の住宅や工場の復活も容易に成る。そして電話が復旧すれば商売が始められる。瓦礫撤去が終了したらオランダの様な大型の防潮堤で囲まれた街が復活するのではないか。1000年に一回の確率の大地震と大津波が3月11日に来たのだから、余震が終われば街の復興だ。内の脇は私の子供の時は田んぼだった。埋め立ててこのような街を人が創ったのだ。復興委員会の案は、学者の机上の案にしか過ぎない様な気がする。商売は生き物、人は今を生きるために生活しなければならない。

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今までは車で南気仙沼駅前に行けなかったが、ようやく懐かしい駅前の風景を見ることができた。

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カモメが数羽、我が物顔で道端の魚をつついていた。どのカモメも健康に肥えていた。腐った魚の臭いもだいぶきつくなった。車から出ると小さなハエが大量に私を取り囲んだ。マスクはしていたが、口や鼻から潜り込んできそうで怖かった。早々に内の脇地区を退散した。三

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震災後の事務処理(備忘録)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/06/15 7:43気仙沼 

3月11日の大震災で、兄夫婦は死亡し、母(千草)はその日が週3回のデイケアーに該当し、自宅の浜見旅館に居なかったので何とか助かった。私が住む仙台も大震災の元、停電や断水などライフラインの途絶で家族5人がその日を暮らすのが精一杯だった。兄夫婦の息子(康介、進介)は遠く東京に住み、連絡が取れない兄夫婦の安否確認で眠れない日々が続いた。

そして3月14日に兄の遺体が発見され、4月8日に義理の姉の遺体が発見された。この日以降、行政が関わる遺族の事務処理について、何を行い、何に困ったかをつづり、備忘録として子孫に残しておきたい。

  1. 死体安置所にて警察官立会いの下、遺体を実際に見て本人の確認を行った。兄は階上中学校の体育館、姉は九条の大曲コミュニティセンターに安置されていた。
  2. 死体の身元を確認すると警察官がその場で「死亡届兼検案書」を作成する。本書はA3版の用紙で左側が死亡届、右側が検案書で構成されている。この書類を気仙沼市役所へ提出する。実際の事務手続きは、それぞれ次兄と甥が行った。なお、「死亡届兼検案書」は後で生命保険の支払い手続きなど様々な場面で使用する。次兄と甥が本書を市役所へ提出したが、その場で市役所からコピーをもらっておくべきだった。「死亡届兼検案書」の必要性が後で分かり、市役所から再びコピーを入手するのに多大な時間を要した。
  3. 気仙沼市役所で母の住民票、印鑑登録証明書と兄夫婦の住民票からの除票を申請した。住民票には世帯主が死んだ兄から母へ代わり、母一人の名前だけが記載されていた。住民票の発行は、実際にその住民票に該当する本人でなければ申請できないので、私の自宅のある仙台から母をわざわざ気仙沼へ連れて行った。身分証明書も必要だったが、後期高齢者保険証と介護保険証の両方の提示を求められた。もしも母が運転免許証を持っていれば簡単だったが、如何せん母は運転したことが無い。
  4. 共済金の支払い請求では、共済金の受取人は同一世帯の被扶養者が別世帯の子供たちに優先する。すなわち兄夫婦の子供たちはいずれも東京で独立した生計を立てているため、同じ世帯だった母が受取人になった。これを証明するために下記の書類が必要となった。
    1. 母の住民票
    2. 兄の除票
    3. 義姉の除票
  5. 戸籍謄本も生命保険や共済金の支払い請求に必要だったが、今回の大震災で余りにも死亡者が多かったため4月の段階では戸籍の追加訂正が間に合わずに5月に入り、全部事項証明書および改製原戸籍が入手できた。相続人を証明する戸籍謄本については当初、全部事項証明書で十分だと思っていたが、養子縁組で途中で抜けた場合など、正当な相続人に誰が該当するかを証明するため 改製原戸籍も必要なことがわかった。全部事項証明書はコンピュータ化された縦に該当者を列記する形式に対して、原戸籍は横長の全部手書き、または一部手書きの書式だった。全部事項証明書では途中で抜けた人が記載されないのに対して、原戸籍は全ての記録が残っている。
  6. 次に戸籍謄本は誰の戸籍を市役所で申請するかが重要である。戸籍は結婚によって新しい戸籍が作成される。したがって兄夫婦が死亡した場合にはそれぞれの結婚する前の戸籍も入手する必要があった。一般的には死亡した本人の原戸籍があれば十分と思えるのだが、再婚して他に戸籍がある場合も想定できるので、親の代の原戸籍と必要となる。入手した戸籍謄本は下記の通りである。申請者は甥たちであった。
    1. 兄が筆頭者の戸籍謄本・・・原戸籍、全部事項証明書(兄、義理の姉、甥三人の名前が記載されている。なお、兄夫婦の長男は生まれて間も無く死亡している)
    2. 父が筆頭者の戸籍謄本・・・原戸籍(父、母、長兄、次兄、私が記載されている)
    3. 義姉の父が筆頭者の戸籍謄本・・・原戸籍(義理の姉の父、母、兄弟が記載されている)
  7. 共済金の支払い申請には戸籍謄本も必要であったが、3月4月の時点では発行できなかったので、共済の事務担当と打ち合わせた結果、代わりに市役所が発行した埋葬許可書のコピーを提出した。埋葬許可書は公営墓地への土葬に必要なものだったが、志望した兄、義理の姉の名前が記載されていたので、これで死亡した証明となる。
  8. 罹災証明書の申請は母の名前で行った。気仙沼市役所の税務課に応援の東京都の職員がノートパソコンを窓口において、被災した3箇所の情報を直ちに検索し、その場で3箇所の罹災証明書をそれぞれ5部発行してもらった。この場には今年八十五歳になる母に立ち会ってもらった。実際に被災した本人が出向くと手続きが早くなるので、母には無理してもらった。
  9. 災害義援金の申請については、申請人が母の場合と甥の場合があった。被災した気仙沼の実家には兄夫婦と母の三人が住んでいた。家屋が全壊したことに対する災害義援金および生活再建支援金(基礎部分)は母の名前で申請し、兄および義姉の死亡に対する義援金は甥たちの名前でそれぞれ申請した。
  10. 災害弔慰金の申請も受取人の優先順序があるため、兄の死亡に対する受取人は母が、義理の姉の死亡に対する受取人は甥がなった。母は気仙沼で兄夫婦と同一世帯の被扶養者であったため優先順序が高いが、義理の姉とは血の繋がりがないので遺族の甥が義姉への弔慰金に対する受取人となった。
  11. 死亡した兄夫婦の預金通帳や郵便局の貯金通帳は甥たちが相続する。相続に必要な添付書類はほぼ生命保険の相続手続きと同じである。
    1. 死亡した本人の戸籍謄本(親が筆頭者の原戸籍)
    2. 死亡した本人の戸籍謄本(結婚しているので本人が筆頭者の原戸籍)
    3. 相続する甥の戸籍抄本
    4. 相続する甥の印鑑登録証明書
  12. 死亡した兄夫婦の国民年金は遺族年金となり、兄からの遺族献金は母が受け取り、義姉の遺族年金は該当者が居ないと判断された。遺族年金の受取人は同一世帯の被扶養者なので、母のみが該当者となり甥たちは権利が無い。
  13. 気仙沼税務署へ兄、義姉の平成22年確定申告書(青色申告)を提出した。この場合に兄の申告所得税は0円だったので問題なかったが、義姉の場合には還付金があったので甥の預金口座に入るように手続きを行った。そのときに面白いと思ったのは、戸籍謄本や住民票などの添付を求められなかったことだ。国の機関である税務署なのに案外簡単だった。
  14. 土葬および火葬に要した費用は葬祭業者さんの分を除き、全て無料だった。
  15. 心付けを土葬や火葬に関わった業者さんに渡そうとしたが一切受け取らなかった。
  16. 兄夫婦の遺体は鹿折公営墓地に土葬されたので、気仙沼市役所の環境課より埋葬許可書を入手した。その後、土葬から火葬を経て菩提寺の墓へ移す場合には環境課からの改葬許可書が必要だ。この改葬許可書は法玄寺へ遺骨を移したときに住職へ預けた。

これ以外にも兄が経営していた浜見旅館と水産加工業のカネフトに関わる事務処理が多数残っている。カネフトでは従業員さんが一名、津波に巻き込まれて死亡しているので労災保険の申請が最優先の課題だ。これらについては別の投稿で詳細を記憶しておきたいと思う。

気仙沼中学校21回生の物故者慰霊法要Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/06/13 6:55気仙沼 

平成23年8月14日(日)午後2時より観音寺で開催されます。

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同級生の石川さんからメールが届いた。気仙沼中学校の卒業生が先輩から脈々と受け継いできた同期の故人に対する慰霊祭が、今年も開催される。3月11日の大震災で亡くなった仲間も何人かいるようだ。遠く仙台に住む私が勝手なことを言うようだが、このような時だからこそしっかりと慰霊祭をやるべきだ、と思う。出来る範囲でお手伝いいたします。

私が中学の時は3年2組だったが、前回クラス会を開いた時は平成12年4月30日だった。探していたら、その時の写真が出てきた。亡くなった畠山専市先生と奥様(貞子ちゃん)を囲んで楽しい時間を過ごしたことを覚えている。

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私が綺麗どころ!と一緒の写真もあったので掲載する。憧れの熊谷さんに千葉さん(旧姓:小松)とご一緒させていただき、この瞬間がすごく幸せだった。三

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土葬から火葬へ(気仙沼)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/06/07 10:52気仙沼 

昨日(6月6日)、気仙沼市役所の環境課のMさんから私のPHSへ電話があった。最初、甥の康介と間違えていたが、私が叔父であることを知ると、15日に予定されている土葬された兄、姉の掘り起こし開始時刻が当初の午前10:30から午前9:30へ変更になったことを告げられた。そしてMさんから遺体を土の付いた棺から新しい棺へ移す際に、遺体の移動には5人くらいの人出が必要なので遺族にも力を貸してほしいと言う要請だった。同じ環境課のKさんから以前に電話があった時には、震災から3カ月経つと遺体の傷みも相当激しいので、遺族が直接傷んだ遺体を目にすることを避けるためにも、業者さんを頼んだ方が良いと言うアドバイスだった。私はそのアドバイスに従い、葬祭業者のFさんへ遺体の移動の手伝いをすでにお願いしていた。

そのことをMさんに話すと葬祭業者さんが派遣する人数は通常2名なのでMさんと含めて3名では足りないとの返事だった。それでは業者さんに話して派遣する人数を2名から4名に増やしてもらいますがと言うと、今度は気仙沼の習慣で遺族が改葬には立ち会うものだと、最初に話した主旨を変更した。私は3カ月たった遺体の状態を考えると遺族に立ち会えと要請するのは、肉親にはかなり辛いことではないかとお話しすると、Mさんは納得されたようで足りない人数はMさんが調整すると回答され、一見落着した。

自衛隊員や機動隊員、消防隊員、消防団などの公職の方が、未だ不明者の遺体の捜索に尽力されているのに、遺族が肉親の遺体を見もしないのかとお叱りを受けそうだが、私自身の経験から甥達には止めた方が良いとアドバイスした。兄の遺体には3月19日、姉の遺体には4月12日に自分の目で確かめた。

次にMさんに具体的にどのように遺体を移し替えるのか訊いた。

  1. 重機で掘り出した棺をテントに運ぶ
  2. 納体袋に入った遺体を出して、清める
  3. 遺体を毛布にくるむ
  4. 遺体を新しい棺に移し替える
  5. 最後に白い仏衣で包む

新しい棺は市の費用で火葬場に運び、午後には荼毘に付される。以前に環境課から火葬や控室の利用料金はすべて無料と教えられた。遺族にとって有り難いことだ。そして何よりも傷んだ遺体に直接触れられる市の担当者のMさん、そして葬祭業者から派遣される皆様に心から感謝申し上げます。三

復興の歩み(気仙沼)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/06/06 7:22気仙沼 

6月4日(土曜日)に家内と二人で仙台から気仙沼へ日帰りしてきた。気仙沼へは一関側から入ったが、大曲のトンネルと抜けると、途端に何とも言えぬ臭いが車内に漂ってきた。私が子供時代に港はこのような臭いが充満していた。昔は魚の加工工場が出す臭いだったが、今回の臭いは瓦礫や大量に遺棄された魚が腐って醸し出した臭いだ。未だ悪臭までに至っていないが、暑さが続けば、とんでもない悪臭が気仙沼を覆うことになってしまう。気仙沼の復興は遅々として進まない印象だ。もっと重機と作業員を大量に入れて瓦礫の撤去を一気に進めないと、いつまでも復興の機運は進まない。瓦礫が無くなれば、商店主や工場が次の事を考える。内の脇から、弁天町、川口町の周辺を車で回ったが、重機も瓦礫を運搬する車も少なく、とても力強い復興の足音を聞いているとは思えない。市町村が中心になって瓦礫の除去を進めたのではとても間に合わないのではないか。国が積極的に介入して、地域を分けて日本の大手の土木会社に瓦礫除去を任せて、お互いに競わせ、さらに報奨金も支払えば一気に進むと思う。戦後の復興に示されたアメリカ軍の圧倒的な機械力を見習って、大量の機械力を投入するとともに日本人らしいきめ細かい配慮を加えれば、短期間に瓦礫が取り除かれる。とにかく土曜日とはいえ、全く復興の足音が聞こえてこない。

私の描く復興のイメージは、どこもかしこも多数の重機が瓦礫の山を崩し、道路は運搬を担う大型トラックで大渋滞となっている風景だ。瓦礫の後は綺麗な整地になっており、その整地されたエリアが日々広がり、最後は瓦礫が一掃される。そんな日が一日も早く到来してほしい。

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今回の気仙沼への帰省は、15日に予定されている亡くなった兄夫婦の火葬の準備のためで、気仙沼市役所は土曜日にも拘らず開所していた。幸い環境課の佐藤さんから兄夫婦の改葬許可書を入手できた。次に火葬のお手伝いをしていただく舟屋さんと当日の打ち合わせを行った。火葬の火入れは兄が午後2時より、姉が午後2時30分からなので、二人合わせて葬儀を行うことにした。法玄寺の泰玄(たいげん)上人には電話にて失礼したが、塔婆は用意しない、位牌も作らず、骨箱に俗名で御札を張っていただくことにした。本来は法名(戒名)を頂戴すべきなのだろうが、亡くなった兄夫婦も赦してくれるものと思う。気仙沼が落ち着いて、遺族がご先祖様をお迎えする準備ができたら、御縁のある方を沢山お呼びし、正式な本葬を挙げたいと思っている。それまでどうか天上で待っていて欲しい。

兄が経営していた水産加工工場のカネフトの跡地を訪ねた。今回は遺留品を探すつもりで中に入ったが、余りの瓦礫の山に途中で諦めた。作業服に長靴、軍手だけでは内部は危険で下手に動かすことはできない。写真は事務所の入り口だ。瓦礫の表面を捜すとカネフトの請求書の控えが出てきた。本当はパソコンと外部のハードディスクを探していたのだが、残念ながら思ったところには無かった。

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市場前の本宅も未だ瓦礫の山だった。写真は海岸から魚市場、安波山(あんばさん)方面を写したものだ。地盤沈下で潮が道路の高さに近いところまで来ている。先ほども書いたが、もっと圧倒的な機械力を入れなくてはこの状態はいつまでも続くのではないだろうか。

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被災地、一関Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/05/30 9:41雑感 

3月11日の大震災は太平洋岸の沿岸部ばかり目が行くが、内陸部の一関もかなり被害があると聞いていたので、5月28日(土曜日)に親戚のお見舞いと安原ツヤ御婆さんのお墓の掃除に一関へ行ってきた。

(1)午前5時30分に仙台を出発し、国道4号線を愛車スカイラインクーペで北上する。築館を過ぎたあたりから橋梁の前後の道の起伏が激しく、かなり減速しないと危険な状態だった。

(2)一関の法泉寺に着いた。丁度、本浄上人が車でお出かけの所だった。一年ぶりの安原家のお墓は地震の影響も無く、いつものように私を迎えてくれた。一年ぶりの墓掃除を済ませて本堂に戻ると本浄上人は幸いに戻っていた。庵で御話を聞くと、震災後まもなくトラックに食料を満載して被災地の陸前高田、大船渡を訪問したそうだ。何とも上人の行動力には頭が下がる。その席で、赤荻の鈴木家が地震で自宅が壊され赤紙が張られた状態だと聞いた。現在はアパート住まいと聞いたので、後でお見舞いに行くことにした。

(3)萩荘に向かうがいつもの道は、三嶋神社の裏山が崩れて通行止めだと聞いていたので、厳美渓側から入ることにした。母の実家である鈴木家の手前にこの神社があるのだが、子供の頃から親しんだ神社だった。まさかこの社の森が崩れるとはだれも想像できなかったろう。道路をふさぐように大きな岩が転がっていた。これから梅雨も始まるので撤去作業も進まないのだろう。予定では7月中にこの道路は復旧すると言っている。

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(4)萩荘で叔母の元気な姿を見て、再び一関市内へ向かった。小野寺家の昭二さん宅を訪問し、一緒に鈴木家が住むアパートへ向かった。伯母の民子さんは元気に私達を迎えてくれた。自宅は全壊状態で建て直す必要があるそうだ。解体費用だけで二百万円を超す見積をもらっていると嘆いていた。神も仏も無いと言いたくなるが、80歳を超える高齢でアパート住まいも辛かろうと思った。

出会った誰もが震災後の生活を淡々と話してくれた。今回の訪問で元気をもらったわけではないが、かといって意気消沈して何もしないわけではない。梅雨空の中、重苦しい雰囲気を払しょくできないのが残念だったが、それでも誰もが生活を維持している。

復興への道Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/05/21 7:03気仙沼 

「復興への道」と言っても故郷気仙沼の復興では無い。ご先祖様を祀り、春秋の彼岸やお盆にご先祖様をお迎えする気仙沼の本家のことだ。現在は仏壇があった浜見旅館も魚市場前の本宅も津波に流されて、ご先祖様をお迎えする家がない。

この本家が再興しない限り、満足できる復興とは言えないのではないか。私の兄や甥達と相談し、そのような考えで、今後の復興のシナリオを描いた。

  1. 公営墓地に土葬されている兄、姉を火葬にして改葬する。幸い火葬場に余裕が出てきたので、6月15日「気仙沼市斎場(気仙沼市大峠山1番地27)」 にて、午後2時から兄の遺体、午後2:30より姉の遺体を荼毘に服する。
  2. 荼毘に服した遺骨は、当面、法玄寺にて預っていただく。幸い、住職の駒林泰玄(たいげん)上人には快くご承諾いただいた。
  3. 兄夫婦の長男である甥(康介)が現在勤めている東京のイタリアン料理の店を辞めて、気仙沼へ戻り、自前のレストランを経営するか、どこかへ勤める。
  4. 甥の仕事が軌道に乗った段階で、甥が家を建て、仏壇を作り、位牌を復活する。縁のある方にお知らせし兄夫婦の本葬を行う。法玄寺にて預っていただいた遺骨を、入沢のお墓に納める。
  5. 兄の残した水産加工業カネフトを復活する。縁のある従業員の皆様に復帰していただく。

長い道になるとは思うが、遺族(康介、進介)へのご支援をお願いいたします。(注、私のEメールアドレスは、hikari@mwnet.jp です。兄夫婦の火葬等に関するお問い合わせにご利用ください)

さて仙台の我家の玄関先に今年はツツジが見事に咲いている。例年は数えるほどしか咲かないのだが、ご覧の通りに互いに競う様に咲き誇っている。「希望とはそれ自身の瓦礫の中から夢想の光を灯し続けることだ」、これはヨーロッパの詩人の作品の一節だ。津波で瓦解した故郷の惨状を見るにつけ、当初は唖然とした状態だったが、この詩を思い出せたところを見ると、無意識に復興モードにチェンジしたと言うことだろう。

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あの日を忘れないShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/05/18 6:50自宅 

子供達が震災当日(3月11日)に撮った写真が出てきた。停電の中、ろうそくの灯りが頼りだった。仏壇のろうそく立てと長男が小学校の工作で作成した大きなろうそくが見える。義母がラジオの発電用ハンドルを懸命に回している。この発電機付きラジオは4日間の停電の中、非常に役に立った。

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断水する前に台所の鍋をフル動員して飲料用の水を溜めておいた。我が家は震災後も暫くは水道が使えていたが、ある日、極端に流れが細くなり、ご近所からも断水の情報があって、風呂桶にも水を大量に溜めた。お陰でトイレの水不足には至らなかった。

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ドアの付いた食器棚はほとんどが大丈夫だったが、台所の食器棚の下の扉がゆるくなっていて、ご覧の通りに食器が大量に壊れた。本棚も扉が付いていたおかげで、書籍が崩れ落ちることはなかった。震災の教訓は、少し高くても良いから扉の付いた本棚や食器棚を買うと言うことだ。

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玄関の組み立て式の棚は崩れ落ちた。天井と床で支えるタイプだったが、あの強烈な揺れでは持たなかった。同様に震災前にホームセンターなどで売っていた箪笥の転落防止用のつっかえ棒タイプのグッツは何の役にも立たなかった。幸いに箪笥が倒れることはなかったが、それは床に余裕があったからだ。箪笥は畳の上では無く箪笥設置用のフローリングの床に置いていた。震災の揺れで元の位置から大分動いたが、動ける余裕があったので倒れることはなかった。

震災から2カ月が過ぎ、あの日の記憶を風化させないために備忘録として写真を残す。

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大震災から2カ月が過ぎましたShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/05/12 6:29気仙沼 

昨日(5月11日)で大震災から2カ月となり、仙台市内の交通やライフラインはほぼ震災前の状態に復旧しました。
しかし依然として親戚や知り合いに行方不明者が居て、毎日地元の新聞を見ながらその不明者が発見されていないかと祈る毎日でした。
こんな中、昨日の新聞の身元未確認者のリストに「及川伸子」さんの名前がありました。身元未確認者とは所持品から身元を推定した御遺体で、遺族や親族が本人だとまだ確認さていない状態です。及川伸子さんは被災した日に、亡くなった兄嫁(裕子)と一緒に行動していたと思われていたので、早く発見されることを祈っていました。
新聞の情報だけでは詳しい事は分りませんでしたが、住所も実家と同じなのでほぼ間違いないと思われます。
実は震災の日に、甥ごさんが一緒に車で避難する途中で、及川さんは兄嫁と一緒に逃げると言って私の実家の近くで車を降りたそうです。
何故そのまま逃げなかったのかと、甥ごさんは悔やんでも悔やみきれなかったでしょう。この震災は生き残った人にも大きな心の傷を残しました。
それでも御遺体が発見されたことは少しだけ心の重荷が軽くなるのではないでしょうか。

下の写真は、気仙沼市から発行してもらった罹災証明書です。母(千草)の名前で、実家の浜見旅館、兄の水産加工工場、曽根家の本宅の3箇所を申請しました。何れも跡形も無く流されるか破壊されています。これからは甥達がこの罹災証明書を利用して、公的な支援を受けながら、曽根家の再建を目指します。(三)

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在りし日の二人Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/04/21 7:50気仙沼 

この日は気仙沼市で活躍されている弁護士の小野寺御夫婦が主催するフラダンスショーが仙台市の仙台ホテルで開かれ、兄夫婦に招かれて私達家族も本場ハワイから来たフラダンスチームの本格的なダンスを堪能した。兄(規夫)も兄嫁(裕子)も上機嫌だったことを覚えている。

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実家の浜見旅館が津波に流されたので、写真の一枚も残っていない。幸い仙台の我が家に少しだけ写真が残っていた。張り合わせで申し訳ないが、二人揃った兄夫婦の一番良い顔ではないだろうか。

雪の風景Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/04/20 7:24自宅 

まさに冬に逆戻りしたような天気だった。昨日(4月19日)の雨は夕方から霙になり、今朝、通勤途中に泉ヶ岳を見ると、真冬と同じように雪で覆われていた。4月も下旬だと言うのに、気仙沼の避難所もさぞ寒かったろうと思った。

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兄と兄嫁の土葬も終わって1週間が過ぎて、ようやく落ち着いた気分だ。後は今だ行方不明の従兄が見つかり、福島の原発事故が終息すれば、本格的な復興の気分になるのだが。これまで沢山の縁者からご支援を頂戴しました。改めて御礼申し上げます。

今日から息子の高校も始まります。少しずつ、私達の生活も正常化しつつあります。

兄嫁の墓標E-2-2Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/04/13 8:16気仙沼 

平成23年4月12日の午前11時半から兄嫁(裕子)の土葬が気仙沼市の「鹿折みどりのふれあい広場」で行われた。兄嫁の墓標はE-2-2だった。前回ここを訪れてから10日ぐらい経つか、前回に比べて墓標の数が大幅に増えていた。広い敷地に、すで200体以上が埋葬されていると思う。当日は兄嫁の土葬のみが行われた。

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平日の午前中にも関わらず、兄嫁のために沢山の縁者に参列いただいた。また兄の土葬された場所が兄嫁のすぐ近くなので、参列者には兄の墓標にも参拝いただいた。本当に有難うございました。

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兄嫁が遺体で発見されましたShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/04/11 8:03気仙沼 

兄嫁(裕子)が3月11日の大震災以来、行方不明だったが、先週の金曜日(4月8日)に遺体で発見されたと言う連絡が甥から入った。生きて発見されることを望んでいたが、行方不明者がまだたくさん残っていることを思うと、幸いと言うべきかも知れない。

私と家内は早速、土曜日に気仙沼へ向かい、大曲コミュニティセンターの体育館に安置されている兄嫁の遺体に対面した。遺体は近畿地方から派遣された機動隊員によって4月8日午前10時20分頃に南気仙沼駅の南側ホームで瓦礫の中から発見された。機動隊員のお名前は杉井さんとおっしゃるのでしょうが、瓦礫の中で、できるだけ早く発見されることを待っていたに違いない兄嫁、すでに土葬にされた兄、残された兄夫婦の子供達など、遺族は遠く近畿から来て下さった機動隊員の皆様に心から感謝申し上げます。有難うございました。

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兄嫁(裕子)の土葬は下記の予定で実施されます。兄(規夫)が土葬されている所と同じ場所です。兄嫁と御縁のある方の参列をお願いいたします。なお縁があっても交通手段が無くて行けない方が沢山いらっしゃると思います。私共遺族はお気持ちだけで十分でございます。三

  • 日時:平成23年4月12日(火)午前11:30
  • 場所:気仙沼市大峠山1-26 鹿折みどりのふれあい広場(気仙沼市斎場の隣)
全部流されましたShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/04/10 8:27気仙沼 

甥から私達の実家である浜見旅館(気仙沼市内の脇2-97)が3月11日の津波で全部流され、土台しか残っていないと知らされていたが、やはり自分の目で確かめるために4月10日(日)の早朝4時半に起きて館山から南郷、内の脇地区に入った。

南郷の橋の上から大島の亀山方向を望んだ。大川には多くの瓦礫が残っていた。

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下の写真が私の父母が建てた浜見旅館の津波後の惨状である。確かに土台しか残っていなかった。

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次に兄が経営していた水産加工のカネフト(川口町1-82-2)の惨状である。わずかに左前方に見える青い事務室が残っていたが、工場そのものはすっかり瓦礫の山となっていた。

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最後は気仙沼魚市場前の本宅である。本宅と言ってもこの本宅に実際に住んだ期間は短い。子供時代からほとんど浜見旅館で過ごしていたので、あまり馴染みはないが私の本籍はこの本宅の地所となっている。

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未明の地震Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/04/08 8:39仙台 

昨日(4月7日)の深夜、大きな地震があった。家内と私は二階で寝ていたが、最初はいつもの余震だと思ってたかをくくってゆっくりと寝ていた。しかし段々上下の揺れが激しくなり慌てて起きた。家内と部屋から離れて大きな揺れの中、子供達を起こそうとしたが、長男はしっかりとトイレに入って避難していた。二人の母(Two Mamas)は下の8畳で布団の中で揺れが収まるのを待っていた。長女は下の居間でテレビを見ていたが、慌てずにしっかりしていた。間もなく停電となり、3月11日の経験が生きていて、落ち着いてガスの栓を止めて、懐中電灯とラジオを取りだした。次に甥や兄にPHSで電話して仙台の家族の無事を知らせた。また、停電の生活が始まるのかと思うと憂鬱だが、被害が少なくてよかったと思わなくては。

本日(4月8日)、事務所に出てみると3月11日の震災と同様に什器が移動していた。しかし特に大きな被害はなかった。事務所は電気も水もガスも止まっていなかった。今日は事務所の整理をすることにした。

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迷い犬Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/04/03 15:27自宅 

今日の日曜日に冬タイヤから夏タイヤへの交換のために、玄関から外へ出たら、向こうからシェルティらしい小型犬が歩いている。大分みすぼらしい犬で、私は慌てて家の中に居る家内を呼び出した。

「死んだキャンディとそっくりな犬が外を徘徊しているよ」

私と家内が外へ出てみると、もう行ってしまったのか見失った。家内は慌てて近所を回って、そのはぐれ犬を探し出し我が家へ連れてきた。

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まずは水と倉庫に残っていたキャンディの餌を家内が与えた。ご近所と色々とこの犬の素性を話し合ってみたが、ひょっとすると避難者が飼えなくなって捨てた犬ではないかと言う説もあった。

結局は子供たちが迷子の犬として交番に届けたところが、すぐに飼い主が分かった。今朝迷子になったので、飼い主はすぐに交番に届けたそうだ。やがて子供たちを乗せた飼い主の車が我が家の近くに到着し、迷い犬(ランちゃん)はめでたく飼い主に引渡し出来た。

まだ生死が不明な義理の姉(裕子)も、このようにすぐに戻ってくれれば良いのだが。

兄の墓標A-2-3Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/04/02 18:01気仙沼 

ようやく母を気仙沼の避難所から仙台の我が家へ連れてくることが出来た。4月1日(金)に家内と仙台を出発し、東北自動車道の若柳インターで降りて気仙沼へ向かった。家内は震災後初めての気仙沼入りなのだが、比較的冷静にふるさとの惨状を見ていた。

母の避難所の三日町キングス・ガーデンに挨拶し、その後、気仙沼市役所、郵便局にて母の仙台移転の手続きをした。ただし住所を移す転出ではなく、あくまでも一時的な仙台への移転とした。もっとも実家の浜見旅館は跡形も無くなくなっているので、戻る実家は無いのだが。

翌4月2日(土)に兄規夫が眠る「鹿折みどりのふれあい広場」へ家内と母と縁のある一家と共に行った。兄の墓標は写真の通りにA-2-3だった。名前が書いてある墓標もあったが、半分くらいはご覧の様な記号のみだった。今のところ50体位が土葬にされているのではないだろうか。合掌、三

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都市ガスが復旧しましたShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/03/31 11:01気仙沼 

今日の午前10時過ぎに、家内から嬉しい便りが届いた。我家の封鎖されていたガス栓が開けられて待望の都市ガスが使える様になったそうだ。震災の3月11日から約3週間の間、義母を除き、誰も風呂に入っていない。義母は昨日からデイケアーが再開され、向こうの施設で風呂に入ったそうだ。昨晩は「お婆ちゃんだけ良いね」と孫達に冷やかされていた。家内と子供達は昼から風呂に入って寛ぐそうだ。私も帰宅したら真っ先に風呂に入りたい。

後は気仙沼に居る私の母を迎えに行くことが当面の課題だ。少しずつガソリンの供給も増えているそうだが、実感としてはまだまだガソリンの購入は難しい。

と言いながら、家内から突然の電話が入って、富谷のジャスコの駐車場にあるガソリンスタンドでガソリンを20Lゲットとしたと嬉しい連絡が入った。はじめに富谷にあるアベキのガソリンスタンドへ行ったところ、今日は閉店で明日の午前8時からの営業開始と張り紙があり、途方にくれていたところ、通りかかった車の運転手さんから先のジャスコではガソリンをまだ売っているという情報を与えてくれたそうだ。

早速家内が行ってみるとそんなに待ち時間が掛からずに一回目の20Lを給油し、さらにもう一度並んで車のタンクを満タンに出来たと言う嬉しい知らせだった。明日の金曜日(4月1日)は母を迎えに家内と二人で気仙沼へ行くことにした。

そして事務所には死んだ兄の株取引を仲介してくれた日興コーディアル証券の担当者がわざわざ弔問に訪れてくれた。青葉通りから北四番丁まで遠いところを来て頂き、感謝申し上げます。丁度外へ出るところだったので、余りお構いも出来ずに申し訳ありませんでした。

我が家へ戻ると早速風呂が私を待っていた。3週間ぶりの風呂は、たまった垢をそぎ落とすような感覚だった。頭もシャンプーで丁寧に洗った。体は石鹸と垢こき用のタオルで徹底的に磨いた。風呂上りに体重を量ると78kgになっていた。毎日相当な距離を歩いているので自然にやせた様だ。一時期は90kg近かったのでこれもも嬉しいことだった。

それと昨晩に千葉の相川さんからお見舞いの電話を頂戴した。相川さんのお声を聞くのはそれこそ25年ぶりだろう。年賀状の私の住所をネットで検索して、多分震災の被害には会っていないだろうと思っていたが、少し落ち着いたこの時機にお見舞いの電話したとのことだった。その心遣いがなんとも嬉しい。NTCを退社したのが私が33歳のときだったが、25年経った今でも当時の仲間が私と私の家族のことを心配してくれる。本当にありがたいことだ。

長男の美術コース編入Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/03/30 9:56自宅 

4月から東北生文大高の二年生になる長男に昨日(3月29日)朗報があった。東北生文大高の普通科には一般コースと美術コースがあるが、二年生への進級に当たって一般コースから美術コースへの編入を希望していたが、その希望が叶えられた。

元々高校受験で美術コースを選んだのだが、あえなく失敗し、一般コースへ入学していた。この朗報は家内が学校へ問い合わせて分かったものだ。進級に当たって教材の購入のお知らせがあったものの、一般用か美術用か分らなかったので問い合わせたものだ。担任の先生は体調を崩して2週間ほど入院されていて、我家への連絡が遅れたものだ。長男ははにかみながら喜んでいた。

一方宮城大学に合格した長女は、4月5日に予定されていた入学式が中止となり、授業の開始は5月9日からとなった。4月一杯お休みなのは何ともうらやましい限りだが、本人は複雑な表情だった。

兄の遺品Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/03/29 14:23気仙沼 

兄の遺体が発見されたときに身に着けていた遺品が警察から甥達に引き渡された。その遺品の中身を昨日(3月28日)、仙台の私の事務所で検分した。検分には私と甥の康介、進介そして私の家内が立ち会った。

遺品は透明なビニール袋に入っていて、財布のほかに現金1万円、名刺やメモ書きが複数残されていた。この名刺とメモ書きから兄の死をお知らせしなければならない複数の人物の電話番号や住所が分った。特に山形の遠藤さんには真っ先にお知らせしなければならないと思っていたのだが、その連絡先が分らなかった。さっそく遠藤さんに電話すると兄夫婦の安否をずっと気に掛けていたそうだ。遠藤さんには兄夫婦は公私ともに特にかわいがっていただいていた。遠藤さんご自身の事業がままならない中、遠藤さんの御子息と兄夫婦と手を携えて再建の第一歩を走り出そうとした中での大震災だった。

兄は株取引を個人的に楽しんでいた。遺品に入っていた名刺を頼りに証券会社の担当者に電話すると、兄の死を信じられないと悼んでいただいた。震災前の3月9日に兄と電話で会話したばかりだったそうだ。兄の事をいつも明るく豪放磊落で、気持ちの良いお客さまだったと偲んでいただいた。そしていつか被災地が落ち着いたら兄の墓参りに気仙沼へ訪問したいと語った。単なる株取引の仲介者を超えた有り難いお言葉だ。

後何人かの携帯電話の連絡先がメモ書きされていたが、私には兄との関係が想像つかない方々なので、暫く落ち着いてから電話しようと思う。三

カネフトの再建に向けてShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/03/28 15:28気仙沼 

気仙沼から亡くなった兄の子供二人が仙台へ高速バスで戻り、我家へ泊った。私が気仙沼へ18日に入ったときには瓦礫が邪魔して実家の浜見旅館の様子を見ることができなかったが、甥達は内の脇地区に入り、旅館の跡地をようやく探し出したそうだ。

そこには旅館の建物は跡形も無く、土台のみがむなしく残っていたそうだ。甥が生まれ育った旅館は一片の写真も残さずに、消えてしまった。旅館だけでは無い、ご近所の建物も全く瓦礫の山となってしまった。しかし感慨に耽ってばかりいるわけにはいかない。甥達も私たち一家も気仙沼へ戻っても泊る実家が無くなってしまったのだ。そして先祖代々の墓を守る家長の一家もいなくなったのだ。

幸い今年30歳になる兄の長男は、気仙沼へ戻り、墓守をすると言っている。そして気仙沼の復活の一助となるべく、兄の残した水産加工工場カネフトを再建すると言っている。多分長い道のりになるだろう。カネフトが復活するためには、まず魚市場がその機能を回復し、取引先の大手の水産会社が再建されなければならない。

私も手を貸したいと思っている。私は魚をうまく切ることができないが、カネフトのマネージメントのお手伝いぐらいはできそうだ。

土葬が無事終了しましたShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/03/25 16:06気仙沼 

亡き兄、規夫(享年64歳)の土葬が、本日(3月25日)午後3時に次兄勤、兄の長男康介、次男進介他、親戚や所縁の人々が見守る中、無事終了いたしましたのでご報告いたします。兄が埋葬されている場所は下記の通りです。

  • 気仙沼市大峠山1-26 鹿折みどりのふれあい広場(気仙沼市斎場の隣)

法玄寺の駒林泰玄(たいげん)上人の読経の元、この気仙沼の未曾有の大惨事の中、兄のために皆が精一杯の祈りをあげました。きっとあの世で満足していてくれるものと思います。参列された皆様に心より感謝申し上げます。三

兄の土葬のお知らせShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/03/23 13:22気仙沼 

気仙沼で津波に巻き込まれて死亡した故規夫(享年64歳 旅館浜見、魚加工カネフト経営)の土葬が決まりました。日取り等は下記の通りです。

  • 日時:平成23年3月25日(金)午後1:30
  • 場所:気仙沼市大峠山1-26 鹿折みどりのふれあい広場(気仙沼市斎場の隣)

気仙沼市の職員が立ち会うので、多分、共同の土葬と思われます。

有り難いことに、法玄寺の駒林泰玄(たいげん)上人によって、読経をあげてもらえることになりました。気仙沼には私の兄(次兄)である勤と故規夫の息子、康介と進介の三人が行っている。故規夫に縁がある方は、土葬への参列をよろしくお願い申し上げます。なお縁があってもガソリン不足で行きたくても行けない方が沢山いらっしゃると思います。この火急の時ですので、参列しなくてもお気持ちだけで十分でございます。三

3月18日気仙沼行き高速バスShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/03/20 20:39 

仙台から気仙沼への高速バスが3月18日より運行されることになり、私は家内が支度してくれたおにぎり等の食糧や懐中電灯、ローソクなどをバックに詰めて、県庁前のバス停から気仙沼へ向かった。

午後3時10分発の高速バスだが、私が午前11時半にバス停に着いたときには長蛇の列だった。バス1台では到底乗り切れない人数なので半分諦めたが、結局3台のバスが気仙沼へ向かうことになり、私は2号車で気仙沼へ向かうことが出来た。

バスは気仙沼市総合体育館に午後6時半ごろに着いた。そこから真っ暗な山道を懐中電灯を照らしながら、気仙沼市内へ向かった。幸いなことに時々満月の月明かりが頭上から照らしてくれて助かった。田中から国道45号線にぶつかり、化粧坂方面へ歩き出した。真っ暗な中でも多くの商店が破壊され道路は泥だらけなことが分かった。母が避難している三日町キングズタウンに着いたときには午後7時半ぐらいになっていた。職員の案内で今年85歳になる母が寝ている部屋に入ったが、5名ぐらいが畳の部屋で雑魚寝をしていた。母を起こしてもらい、息子の私を確認して少しだけ笑った。母は大地震のとき、この介護施設に居たので大津波のことは知らない。まして自宅が津波で破壊されたことも知らない。私の兄が死亡したことも知らない。まずは私の顔を見せて安心させた。ガソリンが手に入ったら、すぐに仙台から迎える来ることを約束した。

その夜は化粧坂の親戚の家に泊まった。突然の訪問にもかかわらず、暖かく歓迎してもらった。18日の夕方から電気が復旧して、久しぶりにローソクを使わない明るい夜だそうだ。

翌朝は午前5時に起床して、化粧坂から家内の実家のある館山へ行った。館山の家は義理の母が仙台の我が家に来ているので無人だったが、特に大きな被害が無かったにもかかわらず、外の大きなガスボンベが2本盗まれていた。火事場泥棒ではないが、こんなときに盗みを働く奴らは恥を知れ。

次に館山から三日町、八日町と進みいよいよ被害の大きな魚町に入った。

そのときの写真は下記のURLにある。

http://m-sone.hk3.jp/Tunami/Forms/slidshow.aspx?ViewStyle=slideshow

とにかく想像を絶する惨状だった。

午前11時に兄の遺体が安置されている階上小学校の体育館を訪れ、警察官の案内で兄の遺体と対面した。兄の顔は少し微笑んでいるようで安心した。もしも苦痛の顔だったら甥達に何と説明してよいか分からない。安置所には多くの遺体があった。子供の遺体と対面したのだろうか、母親が慟哭している姿を見た。何ともやるせない。

その日も化粧坂の親戚の家に泊まり、翌朝(20日)に気仙沼市総合体育館のバス停から仙台へ戻った。

兄の死Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/03/17 19:55気仙沼 

今日午後1時ごろ、スーパーのウジエの前で1時間ほど家内と食糧調達のための行列に加わっていたところ、甥からPHSへ電話があった。気仙沼の遺体安置所で私の兄の遺体が確認されたそうだ。兄は気仙沼の川口町で魚の加工工場を経営していた。川口町は海岸に近い。その日は兄嫁と二人で工場にいたそうだ。

これは九死に一生を得た工場長のお話だ。

大きな地震後、従業員を含めて避難を開始したが、兄嫁は一足早く工場を出た。それに続き兄も避難しようとしたが、従業員の一人が忘れ物があると言って戻ったので、兄はその従業員が来るのを待っていたそうだ。工場長は間一髪で助かったが、彼のお話では津波に巻き込まれないギリギリのタイミングだったそうだ。

そう言えば、昨日会社から自宅に帰って腕時計を外した時、メタルの腕輪の一部が突然外れた。いやな予感がして外れた備品を必死で探して、何とか発見し腕時計の腕輪を元の状態にした。しかしそれが知らせだったのかもしれない。合掌

兄嫁の消息は依然として不明だ。何とか生きていてくれることを祈るのみだ。

水道が復旧しましたShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/03/16 8:21自宅 

3月15日(火)午後6時頃に家内が水道の蛇口をひねると、水が出た。ようやく水道が復旧したと安堵の気持ちだったが、念のために町内会長の高橋さんへ電話して確認した。しかし特に区役所から水道復活の連絡があったわけでは無いそうだ。この給水もいつまで続くかわからないので、早速、風呂桶に水をためて突然の断水に備えることにした。家内は近所に電話して水道の復旧を共に喜んでいた。後は都市ガスだけが復旧していない。新聞では1カ月後に復旧する予定だそうだ。でも何とか生活できるのを幸せに思わなくては。

甥から電話があって、気仙沼の母が生存しているらしいと連絡があった。甥にとっては祖母にあたるが、まずは母の無事を喜んだ。しかし依然として兄夫婦の安否は不明だ。また、気仙沼の友達の息子さんからも電話があり、友達の家族が全員無事だと知らせてもらった。本当に良かった。なんでも彼の友達が一昨日、仙台から気仙沼に車で入ったそうだ。その人の情報で気仙沼の様子が少しだけわかった。

現地の携帯電話も少しずつ復旧していると言うことだが、相変わらず気仙沼への電話は不通だ。

仙台市内も食糧不足が深刻になりつつある。仙台から山形方面へ脱出する人たちも増えている。我が家は幸いに米だけは十分にある。ご近所と助け合って頑張るつもりだ。

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電気と電話が復旧しましたShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/03/15 8:34自宅 

3月14日(月)午後1時頃に我家の電気が復旧した。4日ぶりの電気の明るさに感激した。電気が復活すると光電話も復旧した。私自身は事務所を早めに出て、地下鉄の仙台駅から台原駅まで乗り、そこから乗り継ぎのバスで泉中央駅へ向かう予定だったが、バス停は長蛇の列だったので、待つよりは歩く方を選び、約1時間かけて自宅へ午後4時15分ごろに戻った。自宅に戻ると電気が復旧していたので、ちょっとびっくりした。米を炊くのにこの3日間は薪を使っていたので、陽が落ちる前に米を炊こうと思っていた。(写真は3日間使用した米を炊く釜戸代わりのバーベキュー用の焚き火セット)

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事務所では停電で停止していたメールサーバーを復旧させたお陰で、沢山の仲間からお見舞いのメールを頂戴した。まだPHSが使える様になったので、各地から直接励ましのお言葉を頂戴した。本当に感激した。

(写真は暗闇の中での懐中電灯を照らしながらのパスタ料理)

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我家は全員無事Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/03/14 11:35 

3月11日午後に大地震がありましたが、我家の家族は幸いなことに全員無事に過ごしています。仙台市泉区の我家の周辺は3月14日(月)の午前の段階で、停電、断水、市ガス断、固定電話も不通です。幸いなことに13日(日)夕方からPHSのウィルコムが利用可能となり、親戚に我家の無事を知らせました。

ご心配かけましたが、まずは全員無事であることをお知らせします。

春の予感Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/03/09 6:21仙台 

我家を午前5時に出て駅へ向かう途中に、将監東中学校がある。この中学校の校庭を挟んで山の向こうに、黄金色の朝日が昇る瞬間をとらえた。真っ黒な夜空が群青色になり、やがてうっすらとオレンジが広がる。年間と通して、この時期が一番美しい。

娘が高校を卒業し、4月から県立宮城大学の学生となる。陽は昇り、陽は沈む。輝かしい一年になることを祈る。

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ノートパソコン復活Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/01/26 17:16雑感 

20世紀に購入したノートパソコン(NEC LaVie M LM600J/5)の内臓ハードディスク(20GB)を新しいSSD(60GB)へ交換した。交換する理由はやはりまだまだこのノートパソコンには現役として活躍してもらいたいことと、何といっても「もったいない」の精神だ。技術的なことでは、HDの容量が20GBなので空き容量が十分でなくて、デフラグも不可能となった。SSDはプチフリといって、時々フリーズする様な現象が発生する。別のパソコンでSSD化した時は対策を施してほとんど気にならなくなったが、このノートパソコンは古すぎて、最新の対策は適用できない。それでも現状ではWindowsXPの動作が遅すぎることを考えると、プリフリがあったとしてもSSDの速さを取りたいと思った。

HDからSSDへの交換はデスクトップパソコンについて以前にも行ったことがあったが、今回はノートパソコンでの実践だ。HDのデータをツールを用いて外部のUSB接続のSSDへ転送する。HDの性能が悪くて転送に5時間を要した。

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次にHDの交換だが、筺体を外すのにこのノートパソコンの場合にはネジ4本で済んでしまう。最新のノートパソコンではこうはいかないだろう。なおSSDのインタフェースはIDEである。最新はSATAが主流だが古いモデルなのでやむを得ない。

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真冬のペンキ塗りShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/01/16 17:13自宅 

失敗してしまった。我が家の風呂場の壁のカビが目立つようになったので、正月休みにホームセンターからクリーム色のペンキを買ってきて風呂場の壁に塗った。実は昨年の夏にも一度やっているので問題ないと思ったのだが、真冬にペンキ塗りなどするものではない。写真に示すように2週間ぐらいでぼろぼろはげて、ペンキの破片が床に落ちるようになった。今日の日曜日はこのはげ掛かったペンキをはがす仕事を行った。ペンキを塗るよりも剥がすほうが大変だということをお伝えしたい。

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昨年夏に塗った方は被害が少ない。ペンキは2度塗りしているのだが、注意書きに書かれていたのは、真冬は4時間ぐらい間隔を置いてから2度塗りすることとあったので、その注意書きを忠実に守った。しかし真冬の仙台のことではないらしく、ごらんのような有様になってしまった。

暫くこのままほっておいて、暖かくなったらまた塗ろうと思った。

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新年明けましておめでとうございますShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
Aki2011/01/04 7:22自宅 

本年もよろしくお願いいたします。

昨年の正月は故郷の気仙沼で迎えたが、今年の正月は久しぶりに家族と仙台で過ごした。娘が大学の推薦入学の試験で合格してくれたので、暗い正月にならなくて済んだ。2年後には高校一年生の息子の番だが同じように合格してほしいものだ。

下に示す写真は娘と息子の作品だ。どちらも写真撮影後にそれぞれの胃袋に落ち着いた。何とももったいない気がした。

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BMW1200Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/10/21 6:50あんず 

相模原の友人より最近購入したBMW1200の写真が送られてきた。私にとっても憧れのBMWなので、じっくりと見させてもらった。

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友人の書いたプロローグが面白いので紹介します。

「生きてゆくうえで必要なものとは・・何でしょうか?

男にロマンがあり、女にはオマンがあると言う・・(注、原文のまま)

なんか、自分に楽しいことが待っているということは・・悪くないなーと思う

それが、家族とは関係なしに自分だけのお楽しみで、かつ、家族からの冷ややかな目、嫁から非難ごうごうであったとしても・・・

それは9月某日、密やかに進められた計画から始まった(続く)」

CDプレーヤーの修理(オンキョウ)Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/10/14 6:12自宅 

2001年9月に購入したオンキョウのオーディオコンポのCDプレーヤー(C-722M)が壊れてしまった。CDを乗せるトレーがいったん閉じた後で再び開いてしまうトラブルだ。何度やってもトレーが出てしまう。ネットで調べるとトレーを動かすゴムベルトが劣化したことが原因だった。

CDプレーヤーの筺体を開けて、自分でゴムベルトを取り換えた。ただし、新しいゴムベルトが無いので、輪ゴムで代用した。輪ゴムが悪くなったら、また取り換えればよい。

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ドイツからのお客様Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/10/12 7:32自宅 

10月5日からドイツの留学生イザベル・キーファーバー(Isabel Kiefaber)を我家に受け入れた。実は我が娘が2年前にドイツに短期留学した時にドイツでお世話になったホストファミリの娘さんが逆に我家にきたものだ。

だから、お互いの家の事情は知っているので、ほかのホストファミリのお宅よりは受け入れやすかった。15歳の年齢に比べてしっかりした娘さんだった。ドイツ人は礼儀正しく、少し大人し過ぎるようにも思ったが、多分、家庭の躾がしっかりしているのだろう。

昨日は仙台駅にてお別れのセレモニーを行った。留学生14名と付き添いの教師2名は、京都、東京を回って、ドイツへ戻る。一杯の思い出をお土産にドイツへ帰ってほしいものだ。

下の写真は、仙台市内で伊達軍団と一緒に撮ったもの。仙台人にも経験できないハプニングだったらしい。

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一休みShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/10/04 6:26仙台 

ご覧ください。二羽の鳩が事務所のベランダから突き出たポートの先端に止まっています。張り替えたネットのお陰で鳩がベランダに侵入することは無くなったですが、やはり鳩の帰巣本能は健在のようです。鳩の糞害は免れたものの、哀れと言えば哀れですね。

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Before-AfterShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/09/21 7:08自宅 

9月も下旬になり、やっと涼しく思える今日この頃になりました。しかし、7月の梅雨明けから9月の台風が来るまでの夏の暑さは、「熱中症災害」と言えるほどの猛烈なものでした。

その異常な暑さの一つの例が、通勤にいつも利用する私が住む団地の調整池の脇の坂道に生い茂った夏草です。上の写真が、9月14日に撮影したものです。小道の両脇の夏草が生い茂り、本来の道幅を狭めています。過去数年この道を通勤に毎日歩いているのですが、こんな状態になったのは初めてです。学生も大勢利用する大事な道路です。

下の写真が今朝(9月21日)、撮影したものです。休日に町内会の役員の皆さんに刈っていただきました。高橋会長、古澤副会長に深く感謝申し上げます。

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花展にてShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/09/14 6:32仙台 

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家内が撮影した花展でのスナップ写真

朝日に祈るShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/09/11 6:10仙台 

昨日の通勤は、半袖では風が肌を刺し、長袖が欲しくなるような冷たさだった。午前6時の外気温は、摂氏18度、今朝は摂氏22度だった。

今朝の朝日は見事で、家族の健康と地の平和を祈った。

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鳩さんとの最終決戦Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/09/04 11:28仙台 

鳩さんと書くと、何となく鳩山前総理を思い出してしまいますが、この鳩は、空を飛ぶ鳩のことだ。

10年以上前に、事務所として使っているマンションのベランダに鳩除けのネットを張った。しかし、このネットもくたびれてところどころ穴が開くようになった。それでも鳩は警戒して中には入らないと思っていたのだが、ある日ふと見ると大量の糞と羽が落ちているではないか。くそ!何とかしなければならない。

今度は前よりも丈夫なゴルフ練習用の緑のネットを購入して以前のネットに重複して掛けた。しばらくは効果があると思っていたのだが、敵もさる者、中に入らず、外側の仕切りのコンクリート上に大量に糞をするようになった。この幅10cm位の狭いブロックの上で、鳩が2羽仲好く並んでいる。悔しい。

最終的な対策は、古い青い洗濯用の物干し竿を折って半分にして、下記のようにネットの下に掛けたループにひっかけて、ネットの下端を道路側に出すようにした。

これでブロックからネットの下端は大分離れることになるので、さすがの鳩もこれでは留まれないだろうと思った。ある朝、鳩がこのロープに停まっているところを見た。ロープがブランコのようにゆらゆら揺れるので、居心地が悪そうだった。すぐに飛び立ってしまった。やった!成功だ。何とか鳩さんとの最終決戦に勝利した。

本当かな!

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墓参りShift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/08/17 10:43 

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先週に墓掃除に帰省し、13日のお盆の入りから再び家族で帰省した。仙台から気仙沼への高速道路はまるでラッシュ時の一般道のように混んでいた。

気仙沼から仙台への戻りは、高速道を避けて一般道を利用した。昔は、気仙沼、本吉、佐沼、米山、涌谷、鹿島台、松島のルートをとって約3時間かかった。今回は2時間40分ぐらいに短縮された。渋滞もなく、時間はかかるものの精神的には楽な旅行だった。

肝心の墓参りは14日に行った。家族で法玄寺の裏山にあるお墓を目指した。墓地の駐車場はすでにいっぱいで、魚町の駐車場にとめて、歩いて山を登った。実家のお墓は墓地の一番高い所にあって、そこから気仙沼湾を一望できる。これが楽しみで急な坂を上る。

宇宙ステーション?Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/08/09 6:33自宅 

先週山ボウシの枝の選定をしていた時は気付かなかったのだが、土曜日の夕方、垣根に水やりをしていた時に発見した。つぼを逆さにしたような、アーサー・C・クラークのSF小説に出てくる宇宙ステーションような形をした蜂の巣だった。

かなり以前、紅要の間に巣を作られて、その撤去に苦労した覚えがある。蜂が出入りしている状態だったのでいったん殺虫剤で蜂を遠ざけ、大きな紙袋で巣を包み、枝ごと撤去した。蜂の攻撃を防ぐため完全防備で作業したことは言うまでもない。今回の蜂の巣はすでに放棄されていて撤去は簡単だった。

蜂はラベンダーの花に毎日のように集まります。その蜂がいったいどこから来るのかあまり考えないようにしています。

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夕暮れ時Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/07/22 6:57仙台 

梅雨明け後の暑さの到来は、半端ではない。自宅では扇風機が大活躍で、何とかエアコン無で過ごしている。多分、一度エアコンを使うと、この夏そのままエアコン頼りになってしまう恐れがある。エアコンの冷房はその時は良いが、後で必ず体調を崩す。

さて、仙台市のある日の夕方、泉ヶ岳方面の空がダイナミックに茜色に染まっている。 ソフトクリームの表面のように雲が非常に滑らかで、夕日に染まって美しい。

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代行Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/07/04 20:13自宅 

梅雨の真っ盛り。紫陽花の白い花弁が雨に濡れて生き生きとして美しい。一方、山ボウシは色あせ、花弁が落下し始めた。今年は花弁が多いので落下した花弁の掃除が大変だった。

大相撲の野球とばく問題で、名古屋場所を謹慎する武蔵川理事長の代行は賭博問題を調査する特別委員会が推す村上弘義外部理事(元東京高検検事長)に決まった。

これは余りにも行き過ぎではないか。国家権力の中枢にいた人間が、国民の娯楽の世界に入ってきた。まるで戦前の国家権力による娯楽統制を思い起こさせる。どうせなら「やくみつる」さんや「内館牧子」さんが代行になればよかったのにと思う。社民党や共産党は何も言わないのか。民主党の文科省大臣には失望した。野球とばく問題に対する文科省の「指導」が、いつの間にか国家権力の「介入」になっていないか。娯楽は大衆のもの。決して権力に介入させてはいけない。

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沙羅双樹の花の色Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/07/03 6:32自宅 

今年も「沙羅樹(シャラノキ)」の白い花が咲きだした。毎年、木のてっぺん側から咲きだした徐々に下界へ降りてくる。ただ、今年は少し違ってなかなか下界の方へ降りてこない。7月の初旬には一斉に咲きだすはずなのだが、少し遅れ気味です。

「沙羅双樹の花の色」の”沙羅双樹”と「沙羅樹」は別物だそうだが、そもそもインド原産の”沙羅双樹”は日本では育ちにくい。

平家物語の「娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」で、なぜ”花の色”が隠喩として用いられているのか少し疑問がある。沙羅樹の花は盛りが過ぎると枯れる前にぽたりと地面に落下する。色があせる前に落下するのでこの句は成立しないと思うのだが。

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雲の上の泉ヶ岳Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/07/02 6:31仙台 

7月に入り梅雨の合間の晴れの日に、泉ヶ岳を撮影した。重たそうな雲が泉ヶ岳のすそ野を覆い、少しだけ掛け軸の山野図を思い起こさせる。

山頂とその上の雲の間に、初夏の青空が垣間見える。

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初夏Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/06/29 7:23仙台 

こう暑いと、まだ6月だが初夏といっても良いのではないだろうか。6月の初旬までストーブを時々使っていたのが嘘のようだ。

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夏の雲が登場し、突然の雨。雨上がりには虹が上がっていた。この虹がもっと鮮やかに見えると、本格的な夏の到来である。

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6月の紫陽花Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/06/27 17:31自宅 

6月の最後の日曜日は午後から雨が降って梅雨らしい蒸し暑い一日になった。我家の駐車場の脇に植えてある紫陽花が今年も大きな白い花弁を開いた。我家の紫陽花は雨が降ると生き生きとするようだ。白い花弁が一層勢いを増す。

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参議院選が始まったせいで、我家の周辺でも各候補の演説で賑わっている。昔に比べてだれが当選するかはっきりしないので、桟敷席の有権者には結果が楽しみだ。ある意味ではFIFAのサッカーの試合を観戦するような気分かもしれない。日本が善戦してもしなくても私の生活は変わらないのだから。

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真っ赤な泉ケ岳Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/06/25 20:07仙台 

夕方に庭で夕涼みをしていたところ、西の空が異様に明るく、茜色に染まっていた。自宅に戻りカメラを取り出し、貯水池へ向かった。なんと、貯水池を挟んでみた泉ケ岳は真っ赤に染まっている。特に稜線がくっきりと鉛筆でなぞったように描かれている。自然の偉大さ、奥行きの深さを感じたところだ。泉カ岳の風景は刻一刻と変化する。またたく間に明るい空が暗く染まる。幸いなことに、日が沈む直前の最も美しい山の姿をとらえることができた。

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梅雨入りしてからどう云うわけか、晴れた日が続く。今日は特に蒸し暑く、初夏というよりは真夏の夕べを思い出させる。カメラで写した風景は、自分の目で見た風景と大分異なる。夕焼けの泉カ岳の実物は、写真よりもはるかに美しく、自分のカメラ技術の無さを実感したところだ。

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夕暮れの桔梗Shift キーを押しながら Enter キーを押してメニューを開きます (新しいウィンドウ)。
aki2010/06/19 20:04自宅 

一昨年植えた桔梗が今年ようやく花をつけた。この花のつき方がおもしろい。中央に緑の葉っぱを広げ、周りを薄い群青色の五角形の花が囲む。夕暮れ時に見ると、特に幻想的だ。

今日は早朝に小雨が降ったものの、その後梅雨らしい曇り空になったが、湿気が多くてむしむしした天気だった。倉庫に入れていた扇風機を出して、ほこりを払い点検後、各部屋へ配った。

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